國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第五巻】第五章 復元措置と統治原理 > 第一節:復元への道のり

著書紹介

前頁へ

奴隷病の克服

それには、まづ、我々はいまもなほ帝國憲法秩序の下での「臣民」であるといふ「意識の復元」といふ意識改革から始めなければならない。志と勇氣を持つことである。この「認識の復元」と「意識の復元」がなければ、國家としての矜恃を回復することはできず、國の内外に山積する諸問題に對して、これまで通りの閉塞情況から脱却することはできない。占領憲法を最高規範であるとする歪んだ認識は、占領統治の重度の後遺症であり、未だに「蚤の曲藝」を受け入れ、「ハーメルンの笛吹き男」が跋扈する情況を續けることになる。似非護憲論(改正反對護憲論)は論外であるが、似非改憲論(改正贊成護憲論)もまた病膏肓に入つて國家百年の大計を破壞する。占領憲法に對しては、その文言表現と内容、それに解釋などで批判したり揶揄するだけで、所詮は負け犬根性に支配されてゐるのが似非改憲論者である。彼らは、眞實を知らない愚者か、眞實を知つてゐてもそれを語る勇氣がなく、日和見、卑怯、卑劣な保身の亡者か、あるいは祖國再生の志を捨てた確信犯的な反日思想の亡者かのいづれかである。自覺症状に氣付かない似非改憲論者は、敵が己自身であるのに、己以外の者であると錯覺してゐる。似非護憲論が敵だといふ錯覺である。しかし、似非改憲論は似非護憲論と反日兄弟であることに氣付かない。己自身が反日思想に毒されてゐるのに、その「内なる敵」と闘ふことができない重篤なる奴隷病に冒されてゐる。

その病膏肓の最たるものは、現在の我が國の繁榮と平和は占領憲法がもたらしたものであるとの迷信である。戰後の日本人の多くは、厭戰氣分が昂じて、占領憲法は「平和憲法」であるといふ曲學阿世の憲法學者らの戲言を信じ込んできた。それゆゑ、多くの人は、無效論なるものは時代錯誤の「天皇主權」を認める驚天動地の危險思想であるとの誤解を刷り込まれてきたのである。

敗戰利得者である憲法學者は、占領憲法制定當時に、八月革命説が麻疹的に流行したことから、集團ヒステリー状態となつて、これまでの學説をかなぐり捨てて占領憲法を憲法として有效であると主張してしまつたのであるが、その八月革命説が破綻したと認められた今日においては、もし學者としての良心があるならば、占領期の稚拙な論理によつて思考停止してゐたことを眞摯に反省し、これを乘り越えて、占領憲法が憲法としての妥當性と實效性があつたのか、正統性があるのか、といふことなどの再檢討を行ふ學問的な責務がある。ところが、これをすることが自己の社會的地位を喪失することになるとの恐怖感から、無效論を無視し續けて學者の良心を放棄するのである。これは、「飛べない」と錯覺した蚤ではなく、「飛ばない」と自己決定した蚤であり、我が國が再生するについての最大の抵抗勢力である。

いづれにせよ、これまでの平和といふのは、東西冷戰構造の中でアメリカの核の傘といふ庇護の下で、均衡的平和が實現したまでであつて、決して占領憲法があつたから平和であつたのではない。占領憲法は、「平和憲法」などでは決してない。「平和創出憲法」ではなく、いはば「平和時限定憲法」、つまり、平和時でなければ通用しないものといふ意味しかない。占領憲法には紛爭解決能力がないのである。そもそも、經濟復興と繁榮がもたらされたのは、東西冷戰構造における西側の軍産分業體制の所産であり、特に、朝鮮戰爭特需がその起爆劑となつたにすぎない。そして、この經濟復興に醉ひしれ、祖先が築き擧げてきた精神文化を蔑ろにし、國體護持といふ悠久の大義に生きることを侮つてひたすら功利を求めてきた。GHQの暴力と詐術によつて制定された占領憲法を「平和憲法」などとは笑止である。占領憲法を平和憲法と云ひ、國民主權を真理だと信じて何も疑はない。これらの言葉は「記號化」された思考停止の「呪文」である。武装放棄を理想とするのは、囚人の憲法、奴隷憲法、サハァリパーク憲法であり、ニーチェのいふ奴隷道德(ルサンチマン)の終着驛である。

清貧を嘲り、消費の擴大を美德であると錯覺し、奢侈を豐かさの指標とする經濟學がもてはやされてゐる。やうやく「國益」といふことが叫ばれるやうになつたが、その殆どの意味は經濟的利益の追求であり、祖國と祖先の名譽ではない。

「玩人失德、玩物喪志」といふ言葉がある。「人ヲ玩ベバ德ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ」(書經)といふことで、經濟復興だけを追ひ求め、精神復興を怠つた「愚か者」を戒める言葉である。また、「怠け者」といふ意味の「レーニン」といふペンネームを持つウラジミール・イリイッリ・ウリヤーノフは、「その國の青少年に祖國呪詛の精神を植ゑつけ、國家への忠誠心と希望の燈を消すことが革命への近道である」と豫言したとほり、その近道を我が國は歩んでゐる。この「怠け者」によつて「愚か者」が導かれ、自らも怠け者となつて、その德と志が吸ひ取られてきた。それゆゑ、無效論によれば法的安定性が否定されるか否か、といふ眞摯な課題を、愚か者と怠け者たちは心配してゐるのではない。單に愚か者と怠け者が安逸を貪るための御託を竝べ立ててゐるに過ぎないのである。

それゆゑ、眞正護憲論(新無效論)によつて、この精神の復興を果たし神洲正氣の自覺に立つことによつてのみ祖國は再生できることを自覺し、その志と勇氣を持つて、帝國憲法秩序を我々と將來の子孫のために、改めてどのやうな法體系秩序として改善する必要があるのかを檢討して建白しなければならない。その道筋が「復元」の意味するところである。そして、この章では、さらに、復元の際に是正すべき事項を檢討するに際して、これまでの統治原理自體もその對象とし、具體的な提案を行ふことになる。

続きを読む