國體護持總論
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著書紹介

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道義の回復

まづ、復元において眞つ先に必要なことは、道義の回復である。孔子は、「必也正名乎」(必ずや名を正さんか)として、名(言葉)と實(内容)とを一致させることが必要と説いた。『論語』の「子路編」に、「子路曰、衞君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎」(子路曰く、衞の君、子を待ちて政を爲さしむれば、子將に奚(なに)をか先にせん。子曰はく、必ずや名を正さんか)とあり、孔子は、これに續けて「名不正則言不順、言不順則事不成」(名正しからざれば則ち言したがはず、言したがはざれば則ち事成らず)と説いた。

つまり、五常の一つである「信」は「人」と「言」の合成であり、その字義は、人は言明したことを貫かねばならないことを意味する。この「正名」によつてのみ政治や教育や裁判などの道義は守られるのである。それゆゑ、占領憲法や東京裁判のやうに、憲法でないものを憲法とし、裁判でないものを裁判とすることを正さなければ、政治も教育も裁判も歪んだままである。これを指摘したのが相原良一教授であつた。

この見解に從へば、現行の「五月三日」の「憲法記念日」は、「國辱の日」と改め、帝國憲法が明治二十三年十一月二十九日に施行されたことを記念して、「十一月二十九日」を憲法記念日と定めることになる。そもそも、占領憲法が憲法として有效であり、帝國憲法の改正であるとするのであれば、占領憲法は、新たな憲法ではなく、單に帝國憲法の昭和二十一年改正法であるから、その改正法施行の昭和二十二年五月三日は改正法施行日であつて、五月三日は憲法記念日ではない。有效論者からすれば「帝國憲法改正法施行記念日」(憲法改正記念日)にすぎない。從つて、占領憲法有效論であつても、革命有效説などの見解以外の見解であれば、やはり「憲法記念日」は「十一月二十九日」となるはずである。

また、我が國は、「大東亞戰爭」といふ正規の戰爭名稱をこれまで一度も正式に變更したことがないが、これをGHQのプレスコードによる占領下の檢閲によつて「太平洋戰爭」などと呼稱させられることになつたものであつて、「太平洋戰爭」といふ名稱は明らかにGHQによる「檢閲名稱」である。これを政府が現在もなほ踏襲することは、未だにGHQの檢閲を受け續けてゐることと同じである。殊に、「人權」に敏感なはずの左翼勢力などがこの檢閲名稱を使ひ續けることは、彼らの人權思想なるもの甚だいかがはしいもので、僞りであることを自白してゐるに等しい。我が政府による檢閲は斷固として反對するが、GHQによる檢閲は素直に受け入れ、今もなほ無條件降伏してゐるのである。内辨慶といふか、長いものには卷かれろとして恭順を示してゐるのか、いづれにせよ御都合主義のダブル・スタンダードであり、その程度の人權感覺しかないといふことである。同樣のことは他に幾らでもある。「敗戰」を「終戰」とし、侵略軍を占領軍とか進駐軍としたことなども正さねばならない。勿論、自衞隊の名稱も、その階級名稱についても、皇軍の正規名稱に戻さなければならない。さうでなければ、皇軍としての建軍(創軍)の精神を歪める。

このやうなことは、政治や法律の領域だけに限られるものではない。むしろ、文化復興運動、教育再生運動などとしての學際的廣がりが必要である。

もし、現状のままであれば、占領憲法第九條違反の自衞隊を合憲であると強辯して開き直るなど、今まで大人たちが數々の言動を行つてきた大部分に「嘘」があるのに、それを自ら正さずして、次の時代を擔はうとする子供たちに臆面もなく人の道を説くことができるのか。

この占領憲法第九條と自衞隊との關係は、パチンコなどの遊技場營業者の禁止行爲を定めた『風俗営業等の規制及び業務の適性化等に関する法律』(風營法)第二十三條と景品買ひの關係に類似してゐる。パチンコの「特殊景品」(金券)を景品交換所で現金に換へることは、同條第一項第一號の「現金又は有価証券を賞品として提供すること。」に違反するにもかかはらず、それを警察の傀儡組織である公安委員會が當然のこととして容認し、プリペイド制の導入による警察利權の温床となつてゐるのである。いはゆる「三店方式」であつても、換金行爲が組織的に制度化して換金循環してゐる現状からして、これは明らかに賭博罪であり、それが全國的に蔓延してゐるのである。

このやうな違法行爲の反復による道義の退廢は、教育の荒廢を招いてゐる。大人の道義が頽廢すれば子供は歪む。國内の亂れは、國際社會にも陰を落とす。未だに敗戰を引き摺り、大東亞戰爭後の世界の枠組みから逃れられずに、未來の夢と理想を語ることもできないままでゐる。そのためにも、國體護持の大義を貫き、一日も早くこの内憂外患の状況から脱却して國家再興を果たさなければならず、その第一歩として、この復元が必要なのである。

後醍醐天皇が吉野の地で崩御されて建武の中興が花と散つたとき、「たゞ生々の妄念とも成るべきは、朝敵をことごとく亡ぼして四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。」「玉骨はたとへ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も繼體の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」といふ帝の最後の綸言を『太平記』は傳へてゐる。そして、帝は「あだにちる花を思ひの種としてこの世にとめぬ心なりけり」(『新葉集』)といふ御製を遺された(文獻293)。後醍醐天皇は、攝關政治を排除して天皇親政がなされた醍醐天皇の延喜と村上天皇の天暦の御代を理想とされ、御親ら「後の醍醐」と名乘られて、自ら公家政權と武家政權による政治の歪みを糺し、關白や太政大臣を設けず、院政までも排除した天皇親政による理想政治を目指されたが、その道半ばにして崩御された。このことを體すれば、現今において、果たせなかつた建武の中興の志の「種」と「心」を育み、繼體の君を奉じて忠烈の臣となる道は、一念通巖、一味神水の決意なし、眞正護憲論(新無效論)による國體護持運動(祓庭復憲運動)によつて「平成の中興」を実現する以外にないのである。

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