國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第五巻】第五章 復元措置と統治原理 > 第四節:統治原理

著書紹介

前頁へ

多數決原理と少數支配の法則

少數支配の不可避的な現實に法則性を與へた最大の原因は、大衆國家の特質とその支配統治の機能的合理性の追求にあるとされてゐる。しかし、もつと根源的な原因は、多數決原理にあると考へられる。

國家(大衆國家)及び國家以外の團體の全てに共通し、およそ團體の意志形成及び運營に不可缺な制度とされる多數決原理とは、團體の意志(統一意志、一般意志)を認識決定するにあたつて、構成員の多數者の意志をもつて全體の意志と擬制する方法である。これは、審議を盡くした後に形成される多數の意見の存在は、單に數量の問題ではなく、その量的なものの中に質的に高度な眞實性が存在するとの理念に基づくものである。從つて、多數決原理とは、審議を盡くした結果としてなされる數による「議決」もさることながら、それ以上に「審議過程」が重要視されるはずであつた。しかし、大衆國家を例にして考へれば、理念上はさうであつても、情報が氾濫することと反比例して政治的意志決定の選擇肢が極度に少なくなつてゐる。現代社會において、議會の機能は「議決」のみとなつて審議は全く形骸化する。つまり、議會の議員構成は確定してゐるので議決の方向は當然に豫測され、審議の有無を問はず、初めから結論が出てゐるので、審議は不必要となるのである。そのため、審議なき議決が恆常化し、多數決原理とは單に數の論理に歸する。そして、多數派の中の多數派、そのまた多數派といふやうに、多數派の主流を抽出する過程が少數支配の形成過程と一致するため、結果として「少數支配の法則は、多數決原理から生まれる。」と言ひうるのである。

このやうな多數決原理は、その理念の中にも、いはゆる靜脈思考がない。これは、意志決定のためだけの方法であつて、投票や選擧によつて自己の意志が實現した多數者にとつては、自己の意志と團體の意志とが一致するので、その意志實現による滿足としての「效用」を得られるが、意志實現しなかつた少數者にとつては、自己の意志と團體の意志とが對立又は矛盾し、その意志決定が存續して自己の意志と相反する状態が繼續する限り、政治參加の滿足(效用)は全く得られない。

なほ、ここで用ゐた「效用」といふ用語は、經濟學で用ゐる用語を借用したものである。經濟學では、消費者が財(財貨及びサービスなどの經濟的價値を有する經濟財)を購入し、消費したりすることによつて得られる滿足のことを「效用」といふが、本稿で言ふ「效用」とは、政治學的な意味で用ゐるものであり、それは、政治參加(團體運營參加)における自己の意志實現による意識的な滿足と、少數支配の主流などの權力に接近することによつて生ずる付随的利益を享受することによつて得られる滿足の總體を意味するものとして用ゐることとする。

ともあれ、多數決原理とは、制度的には、このやうに、常に少數者の意志を切り捨てて無視することによつて運用されてゐる。ある構成員が、總ての議決において、いづれも多數者の集團に所屬してゐればゐるほど、また、少數支配の地位に登りつめる多數者中の主流勢力に留まれれば留まれるほど、その受けるべき「總效用」は增加する。その逆に、ある構成員が、總ての議決において、いづれの多數者の集團にも所屬してゐなければゐないほど、また、少數支配の地位に登りつめる多數者中の主流勢力から遠ざかれば遠ざかるほど、その受けるべき「總效用」は減少することになる。

ある者の所屬する自治體及び國において、それぞれ數回づつ投票や選擧があつた場合を想定する。そして、すべての投票・選擧において自己の意志を實現した者(死票がなかつた者)と、すべての投票・選擧において自己の意志を實現しえなかつた者(すべて死票であつた者)との兩極の間には無數の連續的態樣が存在する。前者に近ければ近いほど政治參加の效用の總量(總效用)は最大效用に近くなり、逆に、後者に近ければ近いほど政治參加の效用の總量(總效用)は最小效用(ゼロ)に近くなる。以後は、政治參加による總效用が多い集團を「多數者」とし、これが少ない集團を「少數者」といふこととする。

さうすると、多數決原理には、それぞれの構成員が得る效用の格差を縮小し效用を均一化しうる作用が全くなく、逆に多數決を繰り返すことによつてさらに格差が擴大されていくため、各人の總效用の保有量に著しい不均衡が生ずることになるのである。

しかし、少數者は、多數決により團體の意志決定の結果において敗れたが、その審議過程においては多數者の意見の通用性又は妥當性について審査し、その疑問點や矛盾點を指摘してゐるのである。それゆゑ、少なくとも、意志決定において自己の意志が實現しなかつた場合は、多數意志の決定による執行について、その業務の監視・監督・監査(業務監査、國政監察)を自己又は第三者によつて行うことを求める濳在的意志があつたものであり、多數者も自己の意志を實現する場合において、少數者のこのやうな濳在的意志を受忍・許容して議決したものと解釋しうるのであつて、これを何とか制度的に反映させるべきなのである。

個人の場合の意志決定ですら、顯在意志と濳在意志とが兩立し、主位的意志と豫備的意志とが併存してゐる場合が多い。例へば、原則として第一案を實施するが、その實施において不都合があれば、これを中止するか第二案を實施するといふやうに、何らかの意志決定とそれに基づく行動を行ふ場合、その意志は單一かつ單純な一面的なものではなく、複數かつ多面的である。ましてや、團體であれば、通常、複合的かつ多面的な意志決定であることが一般意志の正確な反映なのである。これは、一般意志の内容が一面的か多面的かという認識論の問題である。それを敢へて一面的な結論抽出(意志決定)のみの制度として運用され、また、そのやうにしか運用しえないために、必然的に少數支配の現實に至つてしまふところに多數決原理の根本的な問題があると云へる。

続きを読む