國體護持總論
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著書紹介

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裁判所制度の改革

陪審制や裁判員制度など、裁判の世界に多數決原理を導入することは、裁判の堕落と腐敗を招來する。

裁判のみならず、教育、學問も然り。裁判も教育も學問も、眞理の探求にあり、眞理の發見は多數決で決まるものではない。多數決原理は、多數の者が正しいといふのであれば正しいのではないか、との推定を根據とする。つまり、量の多さは質の高さを推定するといふことである。しかし、專門的に探求すべき眞理の殆どは、大衆の喝采で決まるものではない。

殆どの人には蟲齒がある。ならば、蟲齒がある多數の人の状態が人として本來的に正しい姿なのか。これを肯定するのが多數決である。眞理は、先見の少數者に宿ることも多い。「眞實を語る者は常に少數である」といふ言葉もある。孔子、シッダールタ、イエス、ムハンマドなども、少數者として多數者からは受け入れられず、それでも眞理を説いた。ローマの法律に背いてまでイエスを磔にしたのも多數決によるものである。

このやうに、多數決原理は、決定手續の公平性は保障されても結果の正當性、妥當性は保障されない。「最大多數の最大幸福」といふスローガンで幸福(快樂)の計量可能性を説く功利主義(ベンサム)や、正しい選擇に到達すること(質の問題)が多數決(量の問題)で解決できるとする確率論(コンドルセ)では説明することが到底不可能である。古來から聖者による統治が理想とされ、この統治原理が裁判と學問の世界でこれまで生き延びてきた。裁判官(專門家)による裁判といふ司法制度は、民主主義に對する本質的な「懷疑」が根底にあるからである。專門家でない者が集まつて審議を盡くしても、專門家が到達する結論には到達できるはずがなく、專門家でなければ結果の正當性、妥當性を保障できないとの思想である。これは、學問と似てゐる。學問的な眞理は、學問的に素人の者の多數決では到達できないことを經驗的に認識して實踐してきたからこそ、今日の學問的な成果があるのである。

現在、世界各國で裁判のあり方が問はれ、問題點が指摘されてゐる根本の原因は、このやうな專門家による裁判といふ制度に問題があるのではなく、裁判官の資質の低下にある。專門家として成熟してゐない者が裁判官になることによつて、裁判官の資質が低下してゐることが問題なのに、その資質をさらに低下させる多數決原理を導入するのは本末轉倒である。これは裁判官の任用制度や養成制度の缺陷であつて、專門家の裁判官による裁判制度の缺陷ではない。

多數決原理による裁判といふのは、誤判の責任を免責させるためのものである。まさに「人民裁判」であり、その弊害は誤判の增大と不當判決の增産である。「赤信號、みんなで渡れば怖くない」といふ無責任の制度化である。裁判官全員の責任とか連帶責任といふのは、誰一人責任を問はれないシステムのことである。裁判官は、これによつて誤判の責任を問はれないことになり、さらに資質が低下する。陪審制又は參審制による素人の裁判官に資質の高さを求めることはできないため、素人のなす誤判と不當判決といふ批判を回避する必要から、匿名制と無問責制によることになる。そして、その制度保障に對する甘えもあつて、尚更のこと審判の精度は低くなり、誤判と不當判決が擴大再生産される。そして、これが裁判制度に對する拭ひ切れない不信を增幅させ、裁判制度の根幹を搖るがすことになるのである。

では、裁判官の資質の低下を止め、一層その資質を向上させるためには、どうすればよいのか。それは、やはり效用均衡理論による制度を導入することである。

占領憲法第六十四條は、「國會は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、兩議院の議員で組織する彈劾裁判所を設ける。彈劾に關する事項は、法律でこれを定める。」とし、同第七十八條には、「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の彈劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒處分は、行政機關がこれを行ふことはできない。」と定め、これに基づいて、國會法及び裁判官彈劾法により、裁判官彈劾裁判所が設置されてゐるが、實質的には全く機能してゐない。

裁判官が、強引な訴訟指揮を行ひ、實質的な審理をせず、著しい誤判を行ひ、判決書に思想偏向した政治的餘事記載や傍論判斷を書き入れるなどしても、現行の制度では實際的には責任を問はれない。身分保障によつて權勢欲と物欲を滿たすだけで、「背德」を抑制して高い「德」へ昇華させるための制度力がない。個々の裁判官の努力と研鑽に期待するだけでは無理がある。欲望と恐怖の均衡による高い德への昇華を保障する制度がないのである。これが資質が低下する最大かつ根本的な原因となつてゐる。

司法制度は臣民の生活と直結してゐるにもかかはらず、その裁判官の彈劾制度は、臣民からはあまりにも遠くにある。いはば、司法裁判は直接制、彈劾裁判は間接制である。この不均衡が、制度的な意味で裁判官の「德」の向上を阻害してゐる。從つて、彈劾裁判を直接制にすること、つまり、彈劾裁判所を司法裁判所と同樣に臣民が直接に提訴できる制度とすべきである。これによつて、「欲望と恐怖の均衡」が保てる。裁判官に採用された者は、司法裁判所の裁判官か彈劾裁判所の裁判官か、いづれかの裁判官になることを選擇させる。そして、選擇後もその間の移動は完全に自由にさせる。これによつて裁判官の切磋琢磨による相互監視制度が確立することになる。

また、占領憲法第七十六條第二項前段には、「特別裁判所は、これを設置することができない。」とあるが、特別裁判所は、この彈劾裁判所を含めて必要である。軍の綱紀肅正と機密保持のためには、軍刑法といふ特別刑法を嚴格に執行するための軍法會議といふ特別裁判所が不可缺である。現行の司法裁判所は、具體的な法律紛爭がなければ司法權の範圍に屬しないとする「爭訟性」の要件(裁判所法第三條)や當事者適格の要件などによつて、司法自らがその權限を制限して自縛し續けるが、これを緩和ないしは廢止しなければ、「法の番人」にはほど遠い存在であり續けることになる。利害關係や法律紛爭の當事者ではない者であつても、法律の規定や行政の執行などが正統憲法に違反するか否かの判斷を誰でもが求めることのできる「憲法裁判所」など、「爭訟性」などを要件としない特別裁判所の設置は、權力分立制によつて權力間の抑制と均衡を實現しようとした制度目的からしても、どうしても必要となつてくるのである。

爭訟性などの要件によつて自ら權限を縮小させ、統治行爲論によつてさらに縮小させて國家統治の裁判機能を限定した司法の現状は、まるで「蛸壺」状態である。蛸壺の外で起こつてゐる國家活動の領域に對して一切關與しないし、また、できないのである。本來ならばすべての國家活動を裁判の守備範圍としなければならないにもかかはらず、蛸壺の外の領域の問題については見て見ぬふりをして自己の權益を守ることを「司法の獨立」だとか「司法消極主義」と云つて自己滿足してゐる。この「司法の獨立」は、まさに「統帥權の獨立」を彷彿とさせる。統帥權の獨立は、積極的な意味での權限の濫用(作爲の濫用)であつたのに對し、司法の獨立とは、消極的な意味での權限の濫用(不作爲の濫用)であり、どちらも權限の濫用をすることに變はりはない。權限を濫用する者は、「○○の獨立」といふ胡散臭い常套文句を使ふ。物議をかもすことを回避することが自己の權益を守ることなのである。


また、訴訟構造においては、「訴追機關」の訴訟提起によつて「裁判機關」による訴訟手續がなされる「彈劾主義」(訴追主義)が堅持されるべきである。ところが、實際は、裁判機關が訴追機關を兼ねて自ら訴訟手續を開始するといふ「糾問主義」に限りなく近づいた運用がなされてゐるといふ問題がある。この彈劾主義と糾問主義の相違といふのは、一言で言へば、裁判を受ける當事者と裁判を行ふ裁判官とが完全に獨立した存在であるか否かといふ點にある。ところが、裁判官(判事)と檢察官(檢事)が相互に配轉人事されることによる裁判所、檢察廳、法務省の人事交流(いはゆる判檢交流)の蔓延化や、刑事事件における裁判官と檢察官とのマン・ツー・マン制が採られてゐることによつて、行政事件と刑事事件などは、極めて糾問主義に實質的に近づいてゐると言へる。つまり、行政事件において、國(被告)の訴訟代理人となる訟務檢事の地位と行政事件の裁判官の地位とが人事交流によつて相互に入れ替はつてゐることや、全國の裁判所と檢察廳の運營實態において、裁判所刑事部の特定の裁判官が行ふ裁判には通常はいつも特定の檢察官が配屬され、同じ裁判官と檢察官とのコンビで刑事事件が審理されてゐるといふ事態は、行政事件の原告敗訴率の高さと刑事事件の有罪率の高さと無關係ではないのである。

つまり、裁判所と檢察廳は、司法官僚としての一體性を強化し、その弊害が擴大して裁判を歪め續けてゐるのであつて、この伏魔殿の構造を解體して裁判制度を再生させるためには、效用均衡理論に基づく制度改革しかあり得ないのである。

このことは、裁判制度に限らず、臣民の重大な權利の喪失や義務の負荷に關する行政處分についても彈劾主義が徹底されるべきである。迅速性が求められる事象においては、この例外もありうるが、その場合でも、前述した國政監察院の審査の対象となることは當然のことである。

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