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トップページ > 各種論文目次 > H18.01.07 國體護持:条約考2(続き)

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講和条約群と占領憲法

ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印に基づいて我が国の独立が奪はれ、GHQの軍事占領下での占領憲法の制定、極東国際軍事裁判の断行を経て、昭和26年の「日本国との平和条約」(最終講和条約)を締結して翌27年4月28日に独立を回復するまでの道程は、帝國憲法第13条の講和大権を抜きにしては語れない。

後に詳述するが、占領憲法第9条第2項後段には、「国の交戦権は、これを認めない。」とあるため、交戦権を有しない国家であれば、交戦後の講和も締結する権限をもないことになるので、最終講和条約の締結権限は、やはり帝國憲法の講和大権に求めざるをえないからである。

まづ、ポツダム宣言の受諾とこれに引き続く降伏文書の調印とは、講和大権の発動により、大東亜戦争の戦闘行為を終結(停戦)し、皇軍の無条件降伏と皇軍の完全武装解除を約定した講和条約であり、これにより我が国は独立を喪失したことから「独立喪失条約」といふべき性質の講和条約である。そして、この独立喪失条約の履行として占領憲法の制定と極東国際軍事裁判を断行し、それを踏まへて、最終講和条約を締結して我が国はやうやく独立を回復したのであるから、この最終講和条約は「独立回復条約」の性質を有する講和条約である。そして、このポツダム宣言の受諾から最終講和条約の締結までのGHQ軍事占領下の「非独立」時代にGHQの強制によつてなされた立法行為その他の政府の行為もまた一連の講和条約群の要素として構成されるものであつて、その頂点に位置する占領憲法もまたこの講和条約群の「条約」として制定されたものと評価できるのではないかといふ点について考察する必要がある。

独立喪失条約

我が国は、『ポツダム宣言』を受諾し(昭和20年8月14日)、『降伏文書』に調印した(同年9月2日)。これは、憲法的にはどのやうな根拠も持つものであらうか。これらは、「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」と規定された帝國憲法第13条に基づく講和条約と云へる。そして、ここからGHQによる完全かつ直接の軍事占領が開始し、我が国は独立を奪はれたのであるから、いはば「独立喪失条約」である。

戦争とは、当事国が相互に武力を行使し、いづれかが戦勝国と敗戦国といふ立場を取得し、あるいはそのいづれの立場も取得せずして、講和による最終解決を図る外交の一種である。つまり、宣戦と講和が一対となつた広義の外交であつて、講和条約を武力の行使や威嚇の継続によつて成立させることも当時の国際法において当然に認められてきたものである。その講和もまた広い意味での戦争であり、講和条約に武力の威嚇を用ゐることを否定することは、そもそも戦争自体が当時の国際慣習法上容認されてゐることと矛盾することになる。

ポツダム宣言においては、我が国の独立までも奪ふ内容ではなかつたが、その確認文書とされる降伏文書については、その内容比較において疑義がある。つまり、ポツダム宣言では、我が国の降伏条件として、①皇軍の無条件降伏、②皇軍の完全武装解除、③連合国による部分的な保障占領などを要求してゐた。特に、この部分的保障占領については、第7項(右の如き新秩序が建設せられ、且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。)」と第12項(前記諸目的が達成せられ、且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。)」とに明記され、占領軍の目的を間接的に強制し、それが実現するまでは我が国の一部を軍事占領するといふものであつた。

ところが、降伏文書では、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とあり、我が政府はポツダム宣言の趣旨と同様にこれをGHQによる「間接統治」を意味するものと捉へたが、GHQ側はこれを「直接統治」及び「全地域軍事占領」として実施した。これは「日本軍の無条件降伏」から「日本の無条件降伏」にすり替へられ、我が国は独立を喪失したのである。

バーンズ回答の「subject to」問題

しかし、このすり替へは、ポツダム宣言の受諾に至る経緯において、いはゆるバーンズ回答を契機とするものであつた。

前述のとほり、ポツダム宣言第7項には、「右の如き新秩序が建設せられ、且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。」とあり、同第13項には、「全日本國軍隊の無條件降伏」(unconditional surrender of all the Japanese armed forces)とあつたことから、その占領態様を政府が照会したところ、その回答(バーンズ回答)には、
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
とあつた。

ところが、これを外務省は、
「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のためその必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下におかるるものとす。」
と意図的に誤訳した。

つまり、「subject to」は、「従属」、「隷属」、「服従」の意味であつて、「制限の下におかれる」ではなかつたのである。

そして、それが、降伏文書に受け継がれ、
(英文)
The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.
(邦文)
「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」
となつただけであつて、意図的な誤訳による我が国政府の致命的なオウンゴールにも似た失態であつた。

条約法条約

しかし、ポツダム宣言には、「右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。」として、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下による我が民族を殲滅(ホロコースト)するとの宣言がなされ、このやうな絶対的強制下でこれを受諾し、完全武装解除による無抵抗状態において欺罔と脅迫による不利益変更が行はれた降伏文書の調印により独立を喪失させた条約の瑕疵は極めて重大である。果たして、このことはポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印を無効化する理由となるのであらうか。

この問題の解明については、我が国が昭和56年に締結した「条約法に関するウィーン条約(条約法条約)」(条約第16号及び外務省告示第282号)が参考になる。

ただし、条約法条約第4条によれば、この条約の不遡及について「この条約は、自国についてこの条約の効力が生じている国によりその効力発生の後に締結される条約についてのみ適用する。ただし、この条約に規定されている規則のうちこの条約との関係を離れ国際法に基づき条約を規律するような規則のいかなる条約についての適用も妨げるものではない。」との不遡及規定があるため、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印には直接に適用はないことになる。

ともあれ、この条約法条約は、その第五部第二節の第46条以下に「条約の無効」について規定し、明白な憲法違反(第46条)、特別の制限(第47条)、錯誤(第48条)、詐欺(第49条)、国の代表者の買収(第50条)、国の代表者に対する強制(第51条)、武力による威嚇又は武力の行使による国に対する強制(第52条)、一般国際法の強行規範抵触(第53条)を無効原因として挙げてゐる。

もし、この条約法条約がポツダム宣言と降伏文書に適用されるとすれば、いづれも無効であることは明らかであるが、当時の国際慣習法においては、武力による威嚇又は武力の行使による国に対する強制(第52条)による講和条約はある程度当然のことであつたし、我が国もまた耐え難きを耐え忍び難きを忍んで対外的な天皇の講和大権に基づいてこれを受容したのであつて、これを直ちに無効とすることはできない。

国内法の論理と国際法の論理とは別の法体系であつて、これに国内法の論理を当てはめれば当然に無効であつても、国際法の論理では無効ではない。国際法の論理は、当時から現在に至るまで著しく変化したものの、当時の戦時国際法においては、戦争とは国家間において武力を行使して行はれる合法的な闘争であつて、宣戦(開戦)よつて国交が断絶し、闘争後に停戦、講和を以て終了する国際紛争のための一連の合法的な解決手段であつた。我が国もこの戦時国際法に基づいて大東亜戦争を宣戦大権の行使により国際的には合法的に開戦したのであるから、その終了についての講和も原則として受容しなければならない。確かに、当時の国際法においても、強制によつて締結された条約は無効であるとする国内法と同様の論理は一般論としてはあり得たが、究極的な国権の発動である戦争であつても合法であり、その終局の段階である講和にもある程度の強制が加へられても合法であり、ましてや一般の条約においても外交交渉の一貫として強権的要求があつても有効といふことである。それゆゑ、この大東亜戦争の終了に際して戦勝国によつて敗戦国を支配するために結成された国際連合体制に組み込まれた我が国としては、敗戦によつて締結された講和条約群に対しては、これがたとへ不平等で不合理な内容であつたとしても、その後の改正、破棄等の手段を以て原状回復を目指さなければならず、事後法である条約法条約の趣旨を援用して独立喪失条約自体の無効を主張することは、それこそ禁反言の法理が支配する国際的な信義に悖ることになる。我が国の先人達は、幕末において黒船の威嚇により、治外法権と関税自主権喪失などの不平等な内容で締結された安政五カ国条約とその後の条約をそれから50年以上の長い努力によつてこれらを対等なものへと改正したことを範とすべきであらう。

ところが、仮に、さうであつたとしても、前述のとほり、ポツダム宣言には、「右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。」として、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下による我が民族を殲滅(ホロコースト)するとの宣言がなされてをり、また、「吾等の条件は、左の如し。」(第5項)として、あたかも無条件降伏を求めてゐるのではなく、有条件降伏を求めてゐるかの如くではあるが、これに引き続いて「吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。吾等は、遅延を認むるを得ず。」として、その条件の取捨選択を許さない「無条件受諾」を求めるものであつた。

それゆゑ、このやうな絶対的強制下での独立喪失条約がそれでも有効であるとすることには依然として疑問が残るのである。

日韓保護条約と日韓併合条約

この問題を考へるにおいて、比較すべきは、明治38年の第二次日韓協約(日韓保護条約)から明治43年の「韓国併合ニ関スル条約」(明治43年条約第4号。日韓併合条約)に至る大韓帝國における独立喪失条約群である。日韓保護条約は、我が国が大韓帝國を「保護国」とし、大韓帝國から外交に関する権限の委譲を受け、その後、日韓併合条約によつて大韓帝國を法的に消滅させたからである。

現在の大韓民国(韓国)は、昭和23年7月12日に制定された大韓民国憲法(制憲憲法)に基づき、同年8月13日に独立を宣言して国際的には独立したが、法的な意味での対日独立は、昭和40年の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)によつてである。この条約が対日独立回復条約である所以は、第2条の「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓民国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とする点にあつた。

韓国側は、日韓保護条約の締結については、我が国の代表である伊藤博文が多数の護衛兵士を率ゐて交渉に臨み、大韓帝國の大臣らを監禁しながら大韓帝國皇帝と重臣の署名を得たと主張し、条約法条約第51条(国の代表者に対する強制)及び第52条(武力による威嚇又は武力の行使による国に対する強制)に違反する条約の締結は、当時においても一般国際法の強行規範に抵触するものとして無効であるとするのである(第53条参照)。そして、その根拠として、対日独立回復条約である日韓基本条約第2条の「もはや無効であることが確認される。」の意味を始源的(原初的)に無効であつた趣旨であると解釈するのである。

これに対し、我が国は、これらの条約の締結を無効化する程度の強制はなく、強制の究極的な行為である戦争の開戦と講和もまた当時は合法であつたとして、「もはや無効である」との趣旨は、日韓基本条約締結時における「失効」ないしは「解除」の意味であると主張する。

「無効」と「失効」、「解除」の区別については前述したが、厳格な法律用語の用法からすれば、「無効」はあくまでも「無効」であつて「失効」ではない。その意味で、我が国側としては用語の選択を誤つたのではないかとの批判はあるとしても、「もはや無効」といふ表現は、「少なくとも現時点では効力を有してゐない」といふ意味で用ゐられたものであることからして、峻別の法理による法理論のデジタル思考の論理による解決ではなく、アナログ思考による解決を実現したことは賢明であつた。

韓国側の論理は、これらの背景にある歴史問題や政治問題はさておき、遡及効がないことが明記されてゐる条約法条約に基づくものであり、現在の論理を過去に遡及的に適用する非を犯かすものであつて失当である。もし、これが認められるのであれば、同じ論理により、安政五カ国条約もまた無効であり、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印も全て無効であり、その前提で成立した占領憲法も極東国際軍事裁判(東京裁判)も無効となり、サンフランシスコにおける最終講和条約も無効となつて、とりわけ、最終講和条約第11条の「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。・・・」といふ、いはゆる東京裁判条項に法律的にも歴史的にも政治的にも一切拘束されることはなくなる。つまり、韓国側に限らず、日韓保護条約と日韓併合条約の始源的無効論を主張する無明の輩が言ひ分が許されるのであれば、同じ論理により東京裁判の無効も論理的に認めざるを得ないのである。しかし、これらの無明の輩は、前者(日韓保護条約と日韓併合条約の無効)を肯定し、後者(東京裁判の無効)を否定するといふ二重基準(ダブルスタンダード)の論理破綻に気付かない。それどころか、日韓保護条約と日韓併合条約の無効の根拠として、東京裁判の有効性を主張するといふ支離滅裂の強弁すら行ふのである。

ホロコースト宣言たるポツダム宣言

ともあれ、これに纏はる歴史問題と政治問題といふ現実的な国際問題を解決するために、筆者は、これらの無明の輩と同じやうに、独立喪失条約の無効を初め、一切の講和条約群の無効を主張する必要があるのではないかといふ誘惑に過去何度も襲はれたことがあつた。それは、この無明の輩の主張のやうな、日韓保護条約と日韓併合条約は「無効」、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印は「有効」とする論理矛盾を犯さずして、その逆に、前者を「有効」、後者を「無効」とする論理が厳然と存在するからであつた。つまり、ポツダム宣言の性質が原爆投下によつて我が民族を殲滅する目的の「ホロコースト宣言」であつたとする論理である。

すなはち、ポツダム宣言第10項には、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも」としながらも、同第3項には、「蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる破壊を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。」とし、前述のとほり、ポツダム宣言の締め括りは、「右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。」としてをり、「完全なる破壊」が何度も繰り返し強調されてゐる。

つまり、ポツダム宣言を受け入れない場合には、原爆投下によつて我が民族を殲滅することを宣言し、それが単なる強迫ではなく、実際にも広島、長崎に投下されて数十万人を虐殺されてゐたからである。民族殲滅を強迫手段とし、しかもそれが単なる脅しではないとして、現実に順次大量虐殺を断行し続けて見せしめを行ふといふ手法の強制は、人類史上最大級の卑劣な強制であり、この強制方法は、当時の戦時国際法が許容性の範囲内のものとして全く予定してゐなかつた事柄である。当時、陸戦協定では、残虐な兵器の使用を禁止されてをり、毒ガスやダムダム弾も禁止されてゐたのであるから、原爆がこれに当たることは明白であつた。国際法上違法な兵器を用ゐた民族殲滅といふこの最大級の強制は、前者(日韓保護条約と日韓併合条約)にはなく、後者(ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印)には存在した。それゆゑ、前者は「有効」であり、後者は「無効」であるとする論理である。

現在では、これは当然に認められる論理ではあるが、当時はそこまでの論理として認められてゐたかについていろいろと見解は分かれるであらう。しかし、国際政治は、学問で決着できるものではなく、学説はあくまでも学説にすぎない。また、強制における脅迫文言(害悪の告知)は様々であつて、その告知された害悪の内容如何によつて強制の性質が必ずしも変質するものでもない。刃物をちらつかせ「腕一本を切り取る」といふ脅迫がなされたままで実行に移されない場合と、「皆殺しにする」といふ脅迫がなされ一人づつ目の前で射殺されて行く場合とでは、確かに脅迫の程度と態様は異なる。しかし、被害者が畏怖し自由な意思を抑圧されて加害者に屈服する過程は、被害者の性格、信念、環境などの被害者側の要素と、加害者の性格、目的、害悪の内容など加害者側の要素との相関関係によるものである。それゆゑ、告知された害悪の内容と害悪の実現の程度は、確かに重要な要素ではあるが決定的な要素ではない。

そして、この国際政治の現実を直視した我が国の先人の足跡と潔さ、「恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」とする教育勅語の精神などを文化総体の我が国としては、引かれ者の小唄を唄ふ反面教師である無明の輩と同じ穴の狢となつてはならないとの自戒を以て筆者はこの誘惑を退けてきた。

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