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トップページ > 各種論文目次 > H18.01.07 國體護持:条約考4(続き)

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占領憲法による条約性の宣明

このやうに、占領憲法を講和条約群の中に位置付けて評価できるとしても、果たして占領憲法は、その規定上において自らをどのやうに捉へてゐるのであらうか。

後に詳述する最終講和条約の第1条には、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」と規定し、同条約の効力発生(昭和27年4月28日)までは、我が国には「完全な主権」がなかつたことを宣言した。

このことは、「日本国民は、・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」などとする占領憲法の前文の全てが虚偽であることを最終講和条約によつて証明したことになる。

つまり、占領憲法が確定したとする時点では、戦争状態も終了してをらず、未だ戦争中であり、しかも完全軍事占領下の非独立状態であつたから「完全な主権」がなかつたといふことである。降伏文書は「停戦協定」にすぎず、依然としてその実効性が継続して「戦争状態」にあり、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ・・・聯合国最高司令官」の隷属下に置かれてゐたのであるから(subject to)、「主権者」は、「聯合国最高司令官」であつて、「日本国民」ではなかつたからである。

それゆゑ、少なくともこの「日本国民は、・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」との部分は、「主権の存する聯合国最高司令官は、・・・主権が将来において国民に委譲されることを宣言し、この憲法を確定する。」と訂正されたことになるのである。

この「主権の委譲」といふ論理は、英米によるイラク戦争後のイラク統治においても用ゐられ、平成16年6月28日、米英によるイラク暫定占領当局(CPA)がイラク暫定政府に主権を移譲したとするものと同様である。

これは、戦争で勝利して実現した実力(暴力)こそが唯一正当な権力(主権)であり、戦勝国の意に反しない敗戦国の国民にその主権を委譲することができると信奉してゐる暴力至上主義の主権論に基づくものであり、占領憲法もイラク憲法もまさにこの主権委譲を受けたことに正当性の根拠を見出す「暴力礼賛憲法」なのである。このことは、平時において、各国が対等の立場で自国の対外主権(独立)を制約して欧州連合(European Union)における欧州憲法条約を成立させやうとすることとは根本的に異なる。

ともあれ、この「主権の委譲」といふ合意の法的性質は、委譲する側と委譲される側との間で主権の譲渡を合意する契約である。イラクの場合は、CPAとその傀儡政権であるイラク暫定政府との間の合意であり、我が国の場合は、GHQとその傀儡政府との合意である。これは、まさに「条約」以外の何者でもない。つまり、占領憲法は、独立喪失条約の履行としてなされた「主権委譲条約」ともいふべき条約なのである。

つまり、降伏文書には、前述のとほり、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限(隷属)ノ下ニ置カルルモノトス。」とあり、さらに、「下名ハ、茲ニ、一切ノ官庁、陸軍及海軍ノ職員ニ対シ、聯合国最高司令官ガ、本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ其ノ委任ニ基キ発セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スベキコトヲ命ジ、並ニ右職員ガ聯合国最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ。」、「下名ハ、茲ニ、ポツダム宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト、並ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ、且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス。」とあることから、占領当初には、「主権」が聯合国最高司令官にあつたので、この「主権」を「責任ある政府が樹立せらるるに於て」(ポツダム宣言第12項)、その傀儡政府に委譲されなければ、我が国は独立もできないし、「国民主権」を謳ふ占領憲法の制定もできないからである。

しかしながら、占領憲法は、その主権をGHQから委譲を受けたことを隠蔽して、占領憲法制定時から既に国民に主権があつたと偽装したはずであつたが、やはりその出生の秘密を完全には隠せなかつた。出生の秘密を暴露してしまつた規定を設けてしまつたのである。それは、占領憲法の「第十章 最高法規」の第98条にある。

同条第1項には、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」として、これには「条約」を含めず、また、同第2項には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と規定してゐる。

同条第1項では、明らかに「条約」を除外してゐる。「条約」は、「法律」でも「命令」でも、ましてや「詔勅」でも「国務に関するその他の行為」でもない。占領憲法では、「法律」と「条約」とを明確に区別し、両者を含むときは、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(前文)といふやうに、「法令」とする。ましてや、同条第2項では、「条約」についてのみ言及してゐることからして、同条第1項には、「条約」が含まれないことは明らかである。つまり、このことからして、同条第1項は、占領憲法に違反する法令のうち、条約のみは有効であることを意味する。

また、同条第2項は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とするだけで、「この憲法に反しない限り」といふやうな限定もない。それどころか、いかなる「条約」であつても、また、条約ではないとしても「確立された国際法規」は、無条件で遵守することを義務付けてゐる。

この「確立された国際法規」とは、ヤルタ・ポツダム体制を集約的に表現した、我が国を敵国として規定した国際連合憲章を意味することは明白である。

それゆゑ、占領憲法は、条約及び国際法規とは効力的には同等(同位)であるか、あるいは条約等が占領憲法よりも優先する存在であることを認めてゐることになるのであつて、占領憲法が実質的に条約であることを自ら宣明してゐることとなつてゐる。

以上からして、占領憲法は、講和大権に基づく憲法的講和条約に他ならないことになるのである。

独立回復条約

我が国は、昭和26年9月8日、独立回復条約である最終講和条約を締結して独立した。この独立回復条約の目的は、我が国にとつてすれば、第一には、我が国の独立(主権)の回復であり、第二には、我が国の自衛権と自衛軍(国防軍)が容認されることにあつた。

連合国は、ヤルタ・ポツダム体制を固定化するため、我が国がポツダム宣言を受諾する前の昭和20年6月26日、国際連合(国連)を設立して常任理事国に就任したので、独立喪失条約に始まるこれら一連の講和条約群の当事国の地位は、実質的には国連が承継することになる。そして、最終講和条約の締結と同時に締結された旧安保条約は、この同時締結が独立の実質的な条件であつたことから、最終講和条約の意義はさらに鮮明となり、この旧安保条約もまた独立回復条約の一つとして講和条約群に含めることができる。

旧安保条約は、米軍の駐留目的が不明確であり、効力期間の定めがなく、我が国に内乱等が起こつた場合に米軍が出動することがてきるといふ「内乱条項」まで存在した。

そして、連合国、とりわけ米国にとつてすれば、この最終講和条約と旧安保条約の二重構造からなる独立回復条約の目的は、我が国を敵国として規定する国際連合憲章(第53条、第77条、第107条)による国際連合体制と、米軍基地の提供を継続させる日米安保体制とによつて我が国を半独立状態のまま支配する構造を確立することであつた。

東西冷戦構造が構築された後の昭和25年6月25日には朝鮮戦争が勃発したことから、同年7月8日にはマッカーサーが警察予備隊75000人創設、海上保安庁8000人増員を許可(指示)した。すは、これは、我が国と連合国との再軍備の合意(条約)であつて、最終講和条約の締結を俟たずして占領憲法第9条が廃止された瞬間でもある。そして、同年10月には、戦闘地域での日米作戦合意に基づき米軍の上陸作戦を支援するため、海上保安庁の掃海隊が朝鮮半島沖の機雷処分に投入され、我が国は「参戦」して戦死者まで出してゐた。そこで、米国主導の連合国としては、この戦時体制を維持し、かつ、我が国に対する支配を継続するために、我が国に「責任ある政府」(傀儡政府)を樹立させてこれに主権を委譲させることが必要となり、最終講和条約を締結させ、その同第5条において、我が国に個別的自衛権と集団的自衛権を認めたのである。

そして、旧安保条約は、我が国国内及びその附近に米軍の配備を許与する内容(具体的には米軍基地提供)の片面的軍事同盟(軍事支配継続)であり、同日に吉田茂内閣総理大臣とアメリカのアチソン国務長官との間で交はされた「吉田・アチソン交換公文」に、最終講和条約と旧安保条約が締結された真の目的が確認されてゐる。

それは、言ふまでもなく、いはゆる朝鮮戦争の勃発と東西冷戦構造の定着化等の国際情勢の変化により、アメリカとしては、我が国に再軍備させる必要が生じたためであつて、占領憲法第9条第2項を名実ともに変質させることに第一次的な意義と目的があつた。ヤルタ協定とポツダム宣言から占領憲法制定に至るまでの連合国の主要な対日政策の目的は、日本の産業構造をも変革し、「再軍備を為すことを得しむるが如き産業」をも禁止して(ポツダム宣言第11項)、非工業化政策を推進し、日本を弱体化させることにあつたが、朝鮮戦争が勃発したことにより、我が国を防共の堡塁とするために、それまでの対日政策を放棄して全面解除した。そして、再軍備の制限規定を一切定めずに自衛権を完全に肯定して講和条約を締結し、西側陣営に属することの血判状(旧安保条約)に誓詞させることと引き換へに独立を許容したのである。

そして、その結果、我が国の国内政治において、「憲法体制」と「講和(安保)体制」といふ占領憲法をめぐる二律背反の相剋状況が出現し、現在に至るまでその相剋から脱却しえない状況が続くのである。

アメリカなどの連合国は、およそ占領憲法を占領政策の手段としか評価してをらず、この押しつけ憲法は、連合国の事情の変化により、随時変更しうるとの認識であつたため、他国の法体系に二律背反の状況を生み出させることを、いとも簡単にやつてのける。連合国からすれば、やはり占領憲法は条約程度の規範性しか認識してゐなかつたのである。

最終講和条約の締結権限

ところで、この最終講和条約の締結は、主権の委譲を受けたとする占領憲法下の政府によつてなされたのであるから、内閣の条約締結権を定めた占領憲法第73条第3号に基づくものであつて、帝國憲法第13条の講和大権に基づくものではないのではないかとの疑問が生ずるのも無理からぬところである。

しかし、内閣の権限は、国家の有する権限の範囲内のものであつて、占領憲法の予定する国家の権限には、講和条約の締結権限はない。ここでいふ内閣の条約締結権とは、平時における一般の条約を意味するのであつて、講和条約を意味しないのである。

なぜならば、占領憲法第9条第1項で戦争放棄を規定し、同条第2項後段には、「国の交戦権は、これを認めない。」とあるため、交戦権を有しない国家には、交戦(宣戦から講和まで)に関する一切の権限がないからである。

最終講和条約第1条には、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」として、同条約の効力発生(昭和27年4月28日)までは、我が国には「完全な主権」がなく、征服状態(subject to)であるものの、未だ「戦争状態」にあつたのである。

「戦争状態」であるといふことは、戦争は終結してゐないのであつて、交戦権のない国家がその終結のための戦争講和をする権限もまた「交戦権」に含まれるのであるから、占領憲法を前提とすること自体に決定的な矛盾がある。

ところで、この「交戦権」の概念には、広義と狭義の区別がある。広義では、文字通り、「国家が戦争を行へる権利」であり、帝國憲法第13条の宣戦大権らか講和大権に至るまでの一体的な権利であつて、いはば、戦争の初めから終はりまで(宣戦から講和まで)を支配するものである。また、狭義では、「戦時において交戦当事国に与へられる国際法上の諸権利(船舶の臨検・拿捕、貨物の没収など)」であり、この区別は古典期(17、18世紀の近代国際法)以来の区別であつて、現在の国際法の用例では、交戦権(right of belligerentcy)を狭義の意味として用ゐられる。

そして、政府のこれまでの見解は、占領憲法第9条第2項後段の「交戦権」は狭義の意味であるとする見解(狭義説)に立つてゐる。たとへば、昭和55年5月15日の稲葉誠一衆議院議員の質問主意書に対する答弁書における政府見解は、第9条第2項の交戦権とは、「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」を言ふとされ、相手国領土の占領、及び占領行政などを例示したのである。しかし、同条第1項の「戦争放棄」は戦争の事実及び権利の放棄(事実上の禁止と法律上の禁止)であつて、広義の交戦権を放棄してゐると解釈されてきた。つまり、占領憲法第9条第2項の「交戦権」を広義に解釈する見解(広義説)はもちろんのこと、これを狭義に解釈する見解(狭義説)であつても同条第1項により広義の交戦権も放棄したとされるのであるから、いづれの見解によつても、占領憲法は、広義の交戦権を放棄してゐることには変はりはないのである。

ましてや、放棄した「国権の発動たる戦争」といふのは、当然に「自衛戦争」を含むものである。自衛とは、国権の発動の最たるものであつて、仮に、第9条第1項でこれが放棄されてゐないとする牽強附会の見解に立つたとしても、大東亜戦争は、占領憲法の前文で「侵略戦争」であつたとして指弾するのであるから、侵略戦争である大東亜戦争の最終段階における交戦権の行使である講和ができるはずもない。占領憲法の立場であれば、永久に講和はできず、そして独立はできないことになるはずである。

従つて、法理論上においても、最終講和条約を締結する権限は、帝國憲法第13条の講和大権に基づくことになるのである。

東京裁判の受容条項

最終講和条約第11条によれば、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。」と規定する。

この「裁判を受諾し」といふ翻訳部分は、「判決を受諾し」の意味であり、後段の「刑の執行」を継続するための法的権限を付与するためのものであつて、その刑の執行の合法的根拠を「判決」に求めるといふ純然たる法律問題にすぎない。これは、講和に際して交戦法規違反者の責任の免除条項(アムネスティ条項 amnesty clause)を設けるのが国際慣習法とされてゐることからして、その例外となる最終講和条約第11条を制限解釈するのが世界の国際法学会における定説だからである。

ところが、同条約第11条を根拠として、東京裁判を歴史観として受け入れたとする謬説とこれに便乗する中韓の妄言があるが、そもそも、条約で歴史観を拘束することなどはありえないことなのである。

しかも、同条約第25条によれば、「・・・第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益を与えるものではない。・・・」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。」とある。ここでの「中国」とは中華民国のことであり、「朝鮮」とは大韓民国を意味するが、これと異なる見解もあるので、仮に、いづれの見解に立つたとしても、そもそも同条約第11条が除外されてゐるため、中国(中華民国及び中華人民共和国)及び朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)との関係で、同第11条の拘束力の範囲に関する解釈がいかやうであつても、何ら中韓との関係で影響されることは全くないのである。

しかし、東京裁判の判決を受容したことは、特定の歴史観に拘束されるものではなく、中韓から容喙されることを受け入れる義務がないことは明らかであるとしても、しかし、この事実は重い。東京裁判は、裁判の名に値しないし、裁判としては無効であつても、やはり講和としては有効であり、これが破棄、訂正されるまでは受忍しなければならないのである。

ところで、最終講和条約が発効した昭和27年4月28日の数日後である昭和27年5月1日に出された法務省法務総裁通知(法務府注意総発第52号「連合国の軍事裁判により刑に処せられた者の国内法上の取り扱いについて」の通牒)には、「さきに昭和25年7月8日附をもって『人の資格(任命若しくは就職又は罷免若しくは失職等にかかる条件又は許可、認可、登録若しくはその取消又は業務の停止等にかかる条件を含む)に関する法令の適用については、軍事裁判により刑に処せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相当する刑に処せられた者と同様に扱うべきものとする』旨の解釈を参考のため御通知したが、この解釈は、もともと総司令部当局の要請に基づいたものであり、平和条約の効力の発生とともに撤回されたものとするのが相当と思料するので、この旨御了承の上、貴部内閣関係機関にも徹底せしめられたい」とあり、これは、国内的には、最終講和条約第11条の国内的効力を否定し、東京裁判は無効であつて撤回されたとして東京裁判に服した者の名誉回復表明であつた。これと呼応して、それ以降に数回に亘つてなされた全て戦争受刑者に対する釈放要求、赦免の国会決議もまた同様の名誉回復表明であつた。

これらの法的意味は何か。それは、最終講和条約第11条の国内的効力を否定する我が国の対内的な意思表明にとどまり、対外的(国際的)な表明ではない。後述するとほり、我が国は対外的にもこれを破棄することが可能であるが、それを未だ行つてゐないのである。これでは、真の名誉回復措置とは云へない。真の名誉回復措置としては、国内的にとどまらず、対外的なものでなければならず、アムネスティ条項といふ国際慣習法に違反したこの最終講和条約第11条の改正を正面から求め、あるいは条項の破棄、失効などを主張することでなければならないのである。

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