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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第五回 承詔必謹と東京条約

とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ
(外国の契り(条約)を法(憲法)と見紛ひて政治する闇祓ひし給へ)

一【承詔必謹】

これは、聖徳太子の憲法十七条の「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。」(承詔必謹)のことですが、このことを根拠として、昭和天皇が占領憲法を帝国憲法の改正法として公布されたことをもつて、占領憲法は有効であるとする見解があります。また、この見解のやうに、必ずしも意識的に主張するものではないとしても、尊皇の志ある者としては、占領憲法の正統性を否定しつつも、それでもなほ無効論に踏み切れない人々の抱いてゐる漠然とした躊躇の本質を顕在化し、代弁したものです。


そして、この見解(承詔必謹説)は、昭和天皇が公布された占領憲法を無効であると主張することは承詔必謹に背くことになり、占領憲法無効論を唱へる者は、みことのりを遵守しない大不忠の逆臣であると言ひたいのでせう。


しかし、もし、昭和天皇が國體を破壊するために積極的に帝国憲法を否定して占領憲法を公布されたとすれば、占領憲法無効論を承詔必謹に背く大不忠の逆賊と批判する前に、昭和天皇を明治天皇の詔勅に反する「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判しなければならなくなります。つまり、昭和天皇は、祖父帝である明治天皇の欽定された帝国憲法発布に際してのご詔勅に明らかに背かれたことになるからです。その上諭には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされてをり、まさに占領憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことは一目瞭然であつて、皇祖皇宗の遺訓と詔勅に背かれ國體を破壊されたことになつてしまひます。それゆゑ、この承詔必謹説を主張するものは、昭和天皇に對して、「反日天皇」とか「反國體天皇」であるとの不敬発言を言ひ切る信念と覺悟がなければなりません。果たしてその信念と覚悟はありや。


そもそも、ポツダム宣言受諾における昭和天皇の御聖断は、進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救つていただいた大御心によるものであり、占領下の非独立時代での占領憲法の公布は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」といふ「國體護持の痛み」を伴つたものに他なりません。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝国憲法下で即位されたときから始まり、それゆゑに終戦の御聖断がなされたのであつて、世人の皮相な評価を差し挾む余地のない深淵な御聖断なのです。


「天皇と雖も國體の下にある。」といふ「國體の支配」の法理からすれば、「詔(みことのり)」といふのは、國體護持のためのもので、決して國體を破壞するものであつてはならないし、また、そのやうに理解してはなりません。ここに詔の限界があります。


このことは、楠木正成の旗印とされた「非理法権天」の釈義によつても説明できます。「非理法権天」とは、一般には、「非」は「理」に勝たず、「理」は「法」に勝たず、「法」は「権」に勝たず、「権」は「天」に勝たずといふ意味であると説明されます。


これに照らせば、「法」(占領憲法)の「公布」は、「権」(当時はGHQ)の作用であつて「天」(國體)の命ずるところではありません。しかも、その「権」は、「非」(非道)から生じたものです。詔勅は、天命(國體)の垂迹であり、他国の軍事占領による非独立状態での強制や欺罔によつて簒奪されたものは偽勅、非勅であつて眞の詔勅たりえません。


その昔、和気清麻呂公は、皇統を断絶させる孝謙天皇(称徳天皇)の勅命に抗して國體を護持せんとしたことから、自らは叡慮に背く背勅の徒とされ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅國に遠島となりました。太宰府の神司である中臣阿曽麻呂が「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との宇佐八幡宮の神託があつたか否かとの真偽は兎も角も、これにより、道鏡に即位させることを望まれた天皇は、宇佐八幡宮に再度のご託宣を賜るために和気公を勅使として遣はされた。ところが、和気公が「天之日嗣、必立皇緒、無道之人、宜早掃除」(あまのひつぎは必ずこうちょを立てよ、無道の人よろしく早く掃除すべし)と、御叡慮に反する宇佐八幡宮の託宣が下つたとして天皇に奏上されたところ、その返照は、これが嘘の報告であるとして勅勘を受け遠島となり、後にこの詔勅は「非勅」であることが明らかとなつたため、和気公は復権し、「天皇と雖も國體の下にある。」とする我が国是が遺憾なく発揮されたのです。そして、嘉永4年、孝明天皇は和気公に「護王大明神」の神号を贈られ、明治7年には護王神社として別格官幣社に列せられたのです。この歴史的事実から、承詔必謹の深層を把握する必要があります。


ところで、この承詔必謹説には、次の二つの盲点があります。その一つは、真正護憲論(新無効論)では、憲法として無効の占領憲法が転換理論により講和條約として「成立」したものと評価し、その限度で公布は「有効」であるとする点を見落としてゐることです。真正護憲論は、みことのり自体は否定せず、みことのりの解釈の問題とするのです。つまり、承詔必謹説の批判の的は、公布を全否定することになる旧無効論に本来は向けられるものなのでせう。


二つめは、公布といふ行為自体が有効であるか無効であるかといふ問題と、公布された占領憲法が有効であるか無効であるかといふ問題とは別の問題であるといふことです。公布行為自体は有効であるが、公布の対象となつた占領憲法は無効であるとする見解が成り立つのです。


そもそも、「公布」といふのは、成立したとされる法令を一般に周知せしめる行為であつて、成立したとしても無効である法令が、「公布」によつて有効化させるだけの原始取得的効力(公信力)を有するものではありません。


もし、承詔必謹説を唱へる者が、教条主義的な承詔必謹を振りかざし、占領憲法の公布を「みことのり」であると強弁して真正護憲論を排斥するのであれば、和気公にもこれとと同じ批判をしてみてください。お祖父さん(明治天皇)の遺言を守るべきか、これに反する孫(昭和天皇)の言葉に従ふかのジレンマに立つたとき、迷ふことなくお祖父さんの遺言を弊履の如く捨て去つてください。明治天皇の教育勅語なんか糞食らへと云つてください。こんなことをできるはずがありませんよね。  ですから、「大不忠の逆賊」といふ言葉は、承詔必謹説の教条主義者に熨斗を付けてお返ししたいと存じます。


また、天皇の公布があるから、憲法として無効な占領憲法も憲法として有効となるとする教条主義では、天皇の公布行為に、無効のものを有効化する創設的効力があると主張することになります。これは、まさしく「天皇主権論」であつて、国民主権と同じ主権論の仲間であり、國體論とは不倶戴天の関係になります。


天皇主権が國體に反することについて、先帝陛下(昭和天皇)も認めてをられました。当時の侍従武官長であつた本庄繁陸軍対象の日記(本庄日記)によると、先帝陛下は、天皇主権説と対立してゐた天皇機関説を支持され、天皇機関説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊厳を冒涜するものであると仰せられたことは、よく知られた事実なのです。



二【無効規範の転換】


先帝陛下が公布された占領憲法は、その実体においてどのやうな法的性質と効力があるのでせうか。真正護憲論は、占領憲法を「ある意味で」有効とする理論であり、決して全否定するものではありません。


では、どんな効力があるといふのでせうか。


よく知られた法理論として、「無効行為の転換」といふ概念があります。そして、これと類似したものとして、「無効規範の転換」といふものがあるのです。無効行為の転換といふのは、ある法律行為(立法行為)がそれ自体としては無効であるとしても、それが他の法律行為(立法行為)の要件を具備してゐる場合には、法的安定性を維持する見地などから、その無効行為が別の法律行為として成立し、その有効要件を満たせば効力を生ぜしめることをいふ現象のことです。一般には私法行為に妥当する理論ですが、公法についても応用されます。


私法の例で言へば、地上権設定契約としては無効な行為を賃貸借契約としては有効であると評価したり、手形としては無効(手形行為の無効)なものを借用証書としては有効(金錢消費貸借契約の有効)であると評価するやうな場合です。


これらの例は、無効な契約が別の契約と評価される場合ですが、無効な「単独行為」(相手方の行為を予定しない単独の法律行為)が別の「契約」(二人以上の当事者の合意によつてなされる法律行為)として有効と評価される場合もあります。それは、たとへば、無効な自筆証書遺言が死因贈与に転換する事例です。具体的に云へば、ある人(甲)が、自己の遺産を他人(乙)にすべて遺贈するといふ自筆証書の遺言書を作成し、それを乙に手渡し、くれぐれも後のことは頼むと依頼したとします。ところが、甲が亡くなつてから、その自筆証書の遺言書を家庭裁判所で検認したところ、自筆証書の要件を満たさないために、結局はその遺言が無効と判断されることがあります。このやうなことは、自筆証書遺言について民法が厳格な要件を定めてゐることから起こりうる事態です。ところが、同様の事案において、裁判所は、これを死因贈与とみなすとの判断を下します(水戸家庭裁判所昭和53年12月22日審判、東京地方裁判所昭和56年8月3日判決、東京高等裁判所昭和60年6月26日決定、東京高等裁判所平成9年8月6日決定など)。つまり、この無効な遺言書は、甲が乙に対して、自己が死亡したときに乙に贈与するといふ死因贈与契約(死亡を停止条件とする贈與契約)の申込文書であり、これを乙に交付することによつて、その申込をなし、乙は、これを受け取つてその内容を知らされた上で承諾したのであるから、贈与契約が成立したと看做すことができるといふ論理を示したのです。これは、甲と乙との間で、初めから死因贈与の合意があつたと認定したのではありません。当事者双方は、その意思がなく、その意思表示もしてゐません。行為規範としては遺言は無効ですが、それを評価規範により贈与契約としては有効であることを肯定したといふことです。


これを公法の規範定立行為に当て嵌めた場合、ある法規(立法行為)が無効とされたとき、それがその上位に位置する法規として有効とすることはおよそあり得ませんが、下位に位置する法規として有効と評価しうることがあり得るが否か、具体的には、占領憲法が帝国憲法の改正として無効であつたとしても、帝国憲法の下位法規である条約、法律、勅令などとして有効と評価し得るか否かといふ問題です。これが、「無效行為の転換」に類似した「無効規範の転換」といふ現象です。


無効なものを単に全否定するのではなく、できる限り法体系に矛盾しない限度で有効として認めようとするのは、権利の救済と法的安定性の維持とを調和させて法の正義を実現するために必要な普遍的な法理論の一つなのです。


そして、この無効規範の転換を肯定する根拠となるのが帝国憲法第第76条第1項であり、ここには、「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」とあります。


この条項は、極めて重要です。それは、占領憲法が国内系の規範として制定されたことからすれば、「単独行為」といふことになりますが、その無効な「単独行為」(帝国憲法の改正)が国際系に属する講和条約といふ「契約」(占領憲法条約)として評価できるとするのが真正護憲論(新無効論)が、この帝国憲法第76条第1項の規定を根拠とする理論だからです。


この第76条については、「憲法施行以前ニ於ケル法令及契約ノ効力ヲ規定シタリ」とする解釈があります。憲法制定時において、そのやうな要請から生まれた規定であるといふ沿革があつたことは確かです。しかし、この規定には、「憲法施行以前」といふ限定の文言は全くないので、ことさらに「憲法施行以前」に限定して解釈しなければならない根拠に乏しいものがあります。それどころか、憲法施行以前といふのは、憲法は存在するがその効力の発生が停止されてゐる状態と理解すれば、憲法施行以後であつても、国家の異常な変局時に憲法の効力が事実上停止されてゐる状態と全く同様です。それゆゑ、憲法の効力が停止されてゐる状態であれば、施行の前後で区別する必要はなくなります。施行以後においても憲法の効力が事実上停止されてゐたり、事実上の障碍が存在する場合にも同条が適用されることは當然のことであり、少なくとも類推適用が肯定されるとすることに問題はありません。そして、GHQの軍事占領下の我が国の法的状況は、まさにそのやうな状態であつたのですから、同条が適用されることに異論はないはずです。


そして、後で理由を述べますが、憲法としては無効である占領憲法は講和条約に転換して、その限度で有効であるとすることになりますが、このことは法的評価であつて、初めから講和条約として締結したものではないことは当然です。


憲法として無効な占領憲法が講和条約に転換するとしても、これは、似非の憲法改正として仮装したために、勿論、講和条約として我が国と連合国とが調印した事実はありませんが、その評価として講和条約となるといふことです。


さうすると、帝国憲法第13条の講和大権によつて、入口条約であるポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ講和条約が締結され、出口条約である桑港条約といふ講和条約との中間に、占領憲法といふ名称の「東京条約」(中間条約)があるといふことになります。占領憲法には、法文形式からして、連合国との合意内容が明記されてゐないのは当然ですが、連合国との関係において、占領憲法に規定されてゐるやうな統治機構制度や国家機関を創設して統治するやうに求められたものと理解すればよいのです。


講和条約としては、①ポツダム宣言、降伏文書(入口条約)、②占領憲法(東京条約、中間条約)、③桑港条約(出口条約)の順で成立したことになりますが、いづれも同等の講和条約ですから、後方優位の原則から、抵触する事項については、後の条約によつて変更されたことになります。



三【講和条約説】


真正護憲論とは、占領憲法は帝国憲法の第73条、第75条に違反して憲法改正法としては無効であるが、第76条第1項により、講和条約の限度で有効であるとする見解です。


ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印は、帝国憲法第13条の講和大権に基づいてなされた「入口条約」であり、サンフランシスコ講和条約(桑港条約)といふ「出口条約」によつて独立を回復しましたが、この入口から出口までの長い被占領、非独立の暗いトンネルの中間にあるのが「中間条約」としての「東京条約」(占領憲法)であり、これらのは一連の講和条約群を形成してゐると評価するのです。


では、無効な憲法規範である占領憲法がどうして講和条約群の一つとして転換しうる適格性があることの根拠について以下に述べてみたいと思ひます。


1 まづ、昭和21年1月13日、GHQ側が「マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)」に基づいて作成された『日本国憲法草案(GHQ草案)』を我が国政府側に手交して、これによる憲法改正を指令し、このGHQ草案を翻訳した「3月2日案」をGHQがさらに訂正した確定案を政府に強制して閣議決定された「GHQ修正草案」が政府の確定草案(3月5日案)となり、これに若干の字句の訂正を経て、『帝国憲法改正草案要綱』を作成してマッカーサーの承認を得たものであり、その後も、条項の細部に亘つて詳細な指示と交渉が繰り返され、これにより政府原案が作成され、さらに引き続き指示と交渉が為され、帝国議会の審議等の国内の形式手続を経て占領憲法となつたといふ経緯があります。つまり、GHQ草案の手交は、講和条約(東京條約、占領憲法条約)の「申込文書」であり、「占領憲法」の制定は「承諾文書」であると評価できます。「契約」は、申込と承諾によつて成立するので、文書化することはその証明方法であつて、一つの「合意文書」を作成しなければならないことはありません。申込文書と承諾文書の二つの文書によつて合意を証明することもできるからです。『条約法条約』第2条(用語)第1項にも、「『条約』とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。」とあり、合意文書が作成されることは要件とされてゐません。文書の個数にも制約がなく、その名称も問はないので、ポツダム宣言とその受諾、降伏文書の調印が一連の条約であると判断されるのと同様に、GHQ草案の手交とそれによる占領憲法の制定手続と、後に述べるやうに、GHQの命令によつて占領憲法を「英文官報」といふ文書により公示した経過からすれば、その実質はまさに「講和条約」なのです。


2 また、占領政策の最高決定機関である極東委員会(FEC)は、昭和21年3月20日に、「極東委員会は(占領憲法の)草案に對する最終的な審査権を持つてゐること」との決定をなしてをり、同年10月17日において、占領憲法の「最終審査」が未了のまま、事後において占領憲法が「日本國民の自由に表明された意思」に基づくものであるか否かを「再検討」するといふことになつたものの、桑港条約の発効とともに廃止されたといふ一連の経緯からして、占領憲法は単純に国内系に属する規範ではなく、連合国と我が国との講和条約であることの実質的な性質を有してゐたことが明らかです。


3 次に、「終戦連絡事務局」の存在が挙げられます。GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戦連絡事務局」であり、これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和20年8月19日、マニラに派遣された河邊虎四郎全権がGHQとの「マニラ会談」においてGHQから手交された要求事項に基づいて設置されたものです。この「終戦連絡事務局」は、外務大臣の所管とされ、「大東亜戦争終結ニ関シ帝国ト戦争状態ニ在リタル諸外国ノ官憲トノ連絡ニ関スル事項ヲ掌ル」といふものであり、その後に機構と名称が変更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港条約発効までの非独立時代を一貫して存続してきた組織です。それは、占領憲法の施行の前後においても全く変はることはなかつたのです。つまり、占領憲法の制定、施行とは全く無関係に独立に至るまで一貫した講和交渉の窓口が置かれてゐたことになります。


4 そして、この占領憲法制定過程において、当初から外務大臣、そして内閣総理大臣として深く関与してきた吉田茂は、「・・・改正草案が出来るまでの過程をみると、わが方にとっては、実際上、外国との条約締結の交渉と相似たものがあった。というよりむしろ、条約交渉の場合よりも一層”渉外的”ですらあったともいえよう。ところで、この交渉における双方の立場であるが、一言でいうならば、日本政府の方は、言わば消極的であり、漸進主義であったのに対し、総司令部の方は、積極的であり、拔本的急進的であったわけだ。」(吉田茂『回想十年』第二巻)と回想してゐるとほり、まさに占領憲法は、交渉当事者の認識としても「外国との条約締結の交渉」としての実態があつたといふことです。

つまり、占領憲法制定作業は、政府とGHQの二者間のみの交渉によつてなされ、政府は常にGHQの方のみを向いて交渉し、帝国議会や臣民の方を向いてゐなかつたことから、占領憲法は、国内法としての憲法ではなく、国際法としての講和条約であつたといふことです。


5 このことは、何も交渉当事者であつた吉田茂だけの感覚や評価に限られたものではなかつたのです。たとへば、上山春平(京都大学名誉教授)は、『大東亜戦争の思想史的意義』の中で、「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。」と述べてをり、有倉遼吉(元早稲田大学法学部教授)も占領憲法が「講和大權の特殊性」によつて合法的に制定されたとする見解を示してゐました。また、黒田了一(元・大阪市立大学法学部教授、共産党系の元・大阪府知事)も、占領憲法を「条約」であるとする見解を示してゐました。


6 同様に、昭和29年3月22日の衆議院外務委員会公聴会において、外交官大橋忠一議員の発言にも注目すべきものがあります。大橋忠一議員は、第二次近衞内閣当時の外務次官を務め、また、昭和15年11月に松岡外務大臣のもとで外務次官となつて日米交渉に携はつた外交官ですが、この衆議院外務委員会公聴会において、「GHQの重圧のもとにできた憲法、あるいは法律というものは、ある意味においてポツダム宣言のもとにできた政令に似た性格を持つたもの」といふ発言をしてゐます。長く外交官を務めた者の判断として、占領憲法は、ポツダム宣言に根拠を持つ下位の法令であるとしてゐるのです。


7 また、吉田茂の第一次内閣発足直後の枢密院審議において、吉田は、「GHQとは、Go Home Quicklyの略語だといふ人もゐる。GHQに早く帰つてもらふためにも、一刻も早く憲法を成立させたい。」と発言して、これが講和の条件として制定する趣旨であることを枢密院に説明し、枢密院は講和独立のためといふ動機と目的のために帝国憲法改正案を諮詢したことになり、講和条約の承認としての実体があつたのです。


8 さらに、吉田茂は、占領憲法が「新日本建設の礎」となるとして、それを与へてくれたマッカーサーに感謝の書簡を出してゐる。それを与へくれたといふのは、まさに講和条約を受け入れたといふことであり、独自の憲法であれば、それをマッカーサーが与へてくれたと感謝する必要もないのです。


9 そして、「英文官報」の存在も無視できません。GHQの指令により、昭和21年4月4日から独立回復した昭和27年4月28日までの間、「英文官報」(英語版官報)が発行されてゐました。これは、外務省の終戦連絡事務局と法制局との協議によつて作成し、GHQの承認を得て掲載されるもので、我が国の法令は、すべてGHQとの条約交換公文方式によつて公布、公示されてきたのです。そして、占領憲法については、特に厳密にGHQの承認を得て帝国憲法改正案(占領憲法)の英訳文を作成して掲載されたものです。この公文書たる「英文官報」に掲載された「英文占領憲法」が現在でも市販のいくつかの六法全書に掲載されてゐるのは、単なる任意の英訳文ではなく、英文官報掲載された「英文占領憲法」として規範的効力を有する公文書なのです。


10 連合国軍最高司令官総司令部の最高司令官(GHQ/SCAP)であるマッカーサーが発令した、昭和20年9月10日『言論及新聞の自由に関する覚書』(SCAPIN16)、同月19日『日本に与ふる新聞遵則』(SCAPIN33)及び同月22日『日本に与ふる放送遵則』(SCAPIN43)などによる一連の言論、新聞、報道の規制と検閲制度の全体を『日本プレスコード指令』と呼称しますが、削除又は発行禁止処分の対象となる項目としての具体的な内容の一つに、「SCAPが憲法を起草したことに対する批判(日本の新憲法起草に当つたSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当つてSCAPが果した役割に對する一切の批判。)」が含まれてゐました。このことは、占領憲法の実質は、GHQ/SCAPと日本国との合意(講和条約)であり、それを国内的には憲法と仮装することの「密約」があつたと評価できるものです。つまり、占領憲法は、「憲法」ではないが、その「擬態」として作られたものであり、その本質は講和条約であるといふことです。


11 また、桑港条約第1条に注目せねばなりません。ここには、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」と規定し、同条約の効力発生(昭和27年4月28日)までは、我が国には「完全な主権」がなかつたことを宣言した点です。



四【帝国憲法の現存証明】


占領憲法が憲法として無効だといふことは、帝国憲法は憲法として現存してゐるといふことなのです。これは次のとほり証明することができます。


大東亜戦争は、帝国憲法第13条の宣戦大権に基づいて開戦となり、同第11条の統帥権によつて遂行されましたが、ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印によつて停戦し、GHQの軍事占領下で独立を奪はれました。その非独立状態と戦争状態は、昭和27年4月28日に桑港条約が発効するまで続きます。


桑港条約第1条には、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」と規定し、桑港条約の効力発生までは、我が国には「完全な主権」がなく、戦争状態にあつたことを宣言してゐるのです。このことは、占領憲法の前文に「日本国民は、・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」との部分が、占領憲法の制定時も施行時も不可能であつたことを意味し、その宣言内容が全てが虚偽であることを桑港条約によつて証明されたことになります。


しかし、殆どの政治家や学者らは、この独立の回復と戦争状態の終了について、占領憲法第73条第3号による内閣の条約締結権によつて桑港条約を締結し、戦争状態を終了させて独立したものであると誤魔化してきました。そもそも、内閣の権限は、占領憲法の規定する国家の能力を越えて行使できないことは自明のことです。占領憲法では国家に交戦権がないので、交戦権の行使となる講和をすることができません。もし、このとき、占領憲法が憲法として有効で、帝国憲法が失効してゐたとしたら、占領憲法では戦争状態を終了させることができず永久に独立できないことになります。占領憲法が憲法として有効であるとする見解は、桑港条約は無効であるとしなければ論理矛盾となるのです。


つまり、戦争状態を終了させて講和を実現させる権限は交戦権(戦争権限)であり、その法的根拠は、帝国憲法第13条の講和大権以外にはありえません。

占領憲法第9条第2項後段には、「国の交戦権は、これを認めない。」とありますから、占領憲法では戦争を終結して講和条約を締結することはできないのです。


この交戦権といふ用語は、昭和21年2月3日、マッカーサーがGHQ民政局(GS)に示した「マッカーサー三原則」(マッカーサー・ノート)に初めて登場した「政治用語」でした。それは、「No Japanese army, navy, or air force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.」(いかなる日本陸海空軍も決して保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍には、いかなる交戦者の権利(交戦権)も決して与へられない。)といふものであり、交戦権といふのは、「rights of belligerency」の訳語です。これが同月13日に示された「日本國憲法草案」(GHQ草案、マッカーサー憲法草案)に引き継がれ、同年3月6日に政府案として発表された「帝国憲法改正草案要綱」(3月6日案)、「内閣憲法改正草案」、そして、占領憲法第9条2項後段へと受け継がれたのです。


このやうに、交戦権といふのは政治用語から出発しましたが、今では法律用語となつて様々な解釈がなされてゐます。しかし、一言で言へば、この交戦権といふのは、アメリカ合衆国憲法における「戦争権限」(war powers)のことです。これは、戦争を開始(宣戦)して戦闘行為を遂行又は停止(統帥)し、最終的には講和条約によつて戦争を終結(講和)する権限のことです。火気を用ゐる外交権のことです。アメリカでは、この戦争権限は大統領と連邦議会とが分有してゐる(第1条第8節、第2条第2節)。我が国にも帝国憲法に戦争権限の定めがあり、宣戦大権(第13条)、統帥大権(第11条)、講和大権(第13条)によることになります。当初は政治用語として出発した交戦権の概念は、アメリカから与へられた概念であることから、アメリカでの戦争権限(war powers)と同じものでなければならないことは当然のことです。


ですから、交戦権(戦争権限)のない占領憲法では桑港条約を締結することができず、この時においても帝国憲法が現存してゐたために戦争状態を終了させて講和独立することができたのです。


さらに、桑港条約を締結するについて、一部講和か全面講和かが熾烈に争はれたことがありました。政治的には、一部講和であつても独立を最優先させたことは正しかつたのですが、これを憲法学的にみれば、占領憲法が憲法として有効である立場からすると、桑港条約は一部講和であるので、桑港条約は明らかに占領憲法違反となります。なぜならば、一部の戦争当事国と講和するといふことは、残りの戦争当事国とは講和しないといふ国家行為であつて、その限度で戦争状態を継続するといふ不作為の国家行為(戦争継続行為)がなされることですから、「交戦権の行使」に該当し占領憲法に違反することになるからです。戦争を終結させることは、その外交交渉も含めて交戦権の行使です。戦争の終結はあくまでも交渉の結果であつて、その外交交渉の過程は戦争状態の継続です。外交交渉が決裂すれば、戦争状態が継続したままになります。それゆゑ、桑港条約によつて一部講和が実現したといふ結果論を以て、桑港条約の締結は「交戦権の行使」に該当しないといふのは詭弁以外の何ものでもありません。仮に、このやうな詭弁に立つたとしても、一部講和の桑港条約を締結することは、これによつて講和しない交戦国(ソ連など)と戦争状態を継続させる行為となつて明らかに違憲であり、我が国は、「憲法に違反して独立した」といふ忌まはしい国辱の歴史を刻んだといふことになつてしまひます。有効論者はそこまで言ひ切る覚悟があるのでせうか。


次に、その他の戦争当事国であつた中華民国(台湾)とソ連についても考察すると、まづ、我が国は、中華民国政府との間で、我が国が桑港条約の発効により「戦争状態」を終了させ独立を回復させた7時間30分前に日華平和条約を調印してゐます。これも、厳密には独立回復前になされた講和条約です。そして、この日華平和条約の第1条にも「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。」とあり、同年8月5日に発効して中華民国との戦争状態は終了しました。


また、最後の戦争当事国であつたソ連との間でも、昭和31年に日ソ共同宣言を調印し、その第1条にも「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。」とあり、同年12月12日の発効によりソ連との戦争状態は終了しました。


ところがです。日華平和条約は、昭和47年9月29日、田中角栄内閣による中共(中華人民共和国)との日中復交によつて破棄されました。その破棄のための交渉や破棄の手続は一切なく、大平正芳外相の「日華平和条約はもはや存在しません」との声明だけで破棄したのです。日華間の戦争状態を終了させた第1条のみを除外して破棄することなく、全面的に破棄したのですから、理論上は日華間の戦争状態は復活することになります。戦争状態の復活は、新たな宣戦通告であるから宣戦大権の行使によらなければならず、これは帝国憲法では可能ですが、占領憲法では到底不可能です。それどころか戦争状態の復活は、交戦権の行使ですから、占領憲法が憲法であれば、第9条に違反することになります。


なほ、日華平和条約の破棄の前提となつた同日の日本と中華人民共和国(中共)との「日中共同声明」においても、その前文で「戦争状態の終結」を謳つてゐます。中共は、ポツダム宣言受諾後である昭和24年の建国ですから、大東亜戦争の戦争当事国ではないとしても、支那事変で戦闘状態となつてゐた八路軍(中国共産党軍)が建国中枢となつた国家なので、それとの戦争状態(戦闘状態)の終結も必要でした。そして、この戦闘状態(不正常な状態)の終結を為すことも、講和大権の発動ですから、交戦権のない占領憲法では不可能であり、これも帝国憲法に基づくことになります。


つまり、戦争状態を終了させる講和条約を締結する行為とその講和条約を破棄して戦争状態を復活させる行為は、いづれも帝国憲法第13条(講和大権、宣戦大権)に基づくものであるから、帝国憲法の実効性は、日華平和条約の破棄と日中共同声明がなされた昭和47年の時点でもその存在が客観的に証明されてゐます。

帝国憲法は、昭和47年の時点までの現存が証明されたのですから、もし、帝国憲法が現存してゐないと主張する人は、これ以後に帝国憲法が失効し無効となつたことを証明しなければなりません。これが立証責任の分配理論であり、法の科学なのです。誰もこれを証明した人は居ませんので、帝国憲法はいまもなほ現存してゐるのです。


平成二十六年六月十五日記す 南出喜久治


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