自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > R04.06.15 第百九十八回 祭祀の民 その七

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百九十八回 祭祀の民 その七

おこたらず あまつくにつを つねいはひ まつりてはげむ くにからのみち
(怠らず天津國津(の神々)を常祭祀して励む國幹の道)


虚構な満ちた宗教の教へを守つても世界は再生できません。これまで、世界の紛争と災害に繰り返し見舞はれても、それを救ふ術を持たず、焼け石に水の僅かな慈善活動をするだけで、ひたすら神仏への帰依と信心を強めることを説くだけで、精神論、観念論に閉じこもつて、何もできなかつたのです。

そして、紛争と災害で被害を遭つた人に対して、信仰の力があつたからこそ、その程度の被害に留まつたのです、と詐欺師のやうな常套文句を垂れ流し続けてきました。


宗教は個人主義です。祭祀は家族主義です。祭祀には人の身分と分際と役割があるので個人主義ではありません。親と子と兄弟などは平等ではないのです。ただし、個人個人にはそれぞれ尊厳があります。それを生かして育むのが祭祀の道です。しかし、宗教は個人主義ですから親と子と兄弟などは平等です。少しの違ひがあることを説いても本質的には平等です。しかし、それでは祭祀は守れません。

祭祀には、それが維持されるための家族の仕組みや社会の仕組みが必要です。しかし、宗教は、家族のあり方や社会の仕組みには関心があつても何も語りません。

Godの下にすべての人が平等であるといふ極めて平面的な社会構造を描いてゐます。


宗教は、人に対して、生きる道や心の持ち方を説いても、社会全体の構造がどうあるべきかは説きません。これは個人主義だからです。

個人主義では、世界の平和な秩序を形成できません。対立と混乱を生むだけです。宗教は、この指止まれの教へであり、この指に止まらない異教徒は殺戮し、排除するからです。


祭祀は、宗教のやうに人を殺しません。排除もしません。そのため、祭祀を復活する必要があり、祭祀が復活して世界に広がれば、極めて平面的になつた家族や社会の構造を重畳的に再構築して均整のとれた秩序が生まれることになります。

しかし、宗教を信じてゐるだけの人はその必要を感じないのです。現に、金融資本主義や賭博経済に異議を唱へることは、宗教の教へからは到底導かれることはありません。


祭祀の復活のためには、金融経済、賭博経済を根絶し、実体経済の生活に戻す必要があります。それは、太古の昔から祖先が営んできた生活であり、現在まで進歩し開発されてきた実体経済を活性化する技術を大いに活用して、豊かな社会を作ることができます。そのためにも、後で説明しますが、国際金融資本に支配されてゐる金融資本主義とか賭博経済などは根絶する必要があります。


政党や言論人が、やたらと「政策」、「政策」と叫んでゐますが、祭祀に根ざしてゐない人は、小手先の政策しか言へません。それは、決して祭祀の復活にはつながらないからです。そんなものは政策でも何でもない戯言です。根本政策ではないからです。


ウクライナ紛争、コロナ禍、ドル高円安などにより、確実にグローバル化を掣肘する方向へと世界は変はつてきました。ロシアを絶対悪、ウクライナを絶対善とする欧米の刷り込みを盲目的に信じてゐる人たちは、複眼的な指点をあへて排除してしまふので、世界を民主主義と専制主義といふ極端な二者択一の敵対関係に世界を色分けして対立を激化させるだけで、これでは世界平和の糸口が全く見つかりません。祭祀による世界統合の道は、さらに遠くなります。


世界の様相を民主主義と専制主義といふ愚かで単純な二分法で説明することはできないのです。家族主義を基軸とする祭祀と、個人主義を基軸とする宗教の対立が、その根底にあることを知らなければならないのです。


いづれにしても、反ロシア、反中共の方向が加速し、サプライチェーンの再構築と経済圏のブロック化で、自給率の向上を目指すための実体経済の位置づけと価値を再認識する必要に人々は少しづつ気付いてきました。


また、これから始まる国際紛争の長期化と慢性化は、我が国のやうに、MSA協定などで自給率を極端に低下させられてきた脆弱な国家は、国内の経済構造を破綻に追ひ込んでしまふ危険があります。

湾岸戦争で、軍事資金の供与をしてもクエートから全く感謝されなかつたときの方が、国際紛争の影響をもろに被らずに済みましたが、ウクライナ紛争では、我が国は確実に国際紛争の戦争当事国になつてしまつたので、後に引けなくなりました。


世界の軍事産業を操る国際金融資本は、営業的に、戦争の危機を必要以上に煽ります。力による現状変更を批判してロシアとの戦争を始めた我が国は、これにより自ら招いた危機を尖閣や台湾の危機にすり替へて、火事場泥棒のやうに軍事費増大を唱へます。ロシアも中共も北朝鮮も、北方領土や尖閣、そして台湾に対して急激な攻撃的対応を行つてはゐないのに、ウクライナへの兵站支援とロシアへの宣戦布告をしたために、本来ならばロシアから攻撃されても不思議ではないのです。中共に対しては、ウクライナ紛争と関係がないのに、台湾や尖閣に何か仕掛けてくるのではないかとの杞憂にも似た憶測で、憲法改正とか軍事費増大を言ひ出したのです。風が吹けば桶屋が儲かるといふ論理です。


対ロ戦争を始めた我が国は、ロシアと中共、そして北朝鮮がウクライナの兵站支援、ロシアへの宣戦布告によつて、軍事的脅威が一段と増したといふ理屈を突然に言ひ出しました。しかし、これは、国際金融資本の言ふなりに動いてゐるだけなのです。世界経済が停滞する中で、軍事産業を活発化することが国際金融資本の戦略であり、これに踊らされてゐるだけです。戦争ができない国が、戦争をし始めた火遊びのツケが回つて、いづれとんでもない事態を引き起こすことになります。


金融資本主義の勢ひが減速して、賭博経済を圧迫する傾向が出てきたので、岸田首相はは、所得倍増といふこれまでの公約を捨てて、資産所得倍増と言ひ出しました。

所得倍増といふ出来もしないことの公約をなかつたことにするために資産所得倍増と言ひ出しました。これは、所得倍増を否定し、資産倍増にすり替へ、成長と分配から、成長のみへとシフトしたのです。


資産倍増とは何か。それは、富める者をさらに富ませ、貧しい者を置き去りにすることです。

たとへば、100の資産を持つ者の資産を2倍にすれば200になります。しかし、1の資産しか持たない貧困層の資産は2倍になつても2です。つまり資産格差が99だつたものを198と拡大させ、そして所得格差もさらに広げることを意味します。

そして、賭博経済が減縮させないために、富める者の資産を「投資」に向けろと言ひ出しました。貯蓄を投資へと転換せよといふのは、究極は、証券、商品、為替相場といふ賭博に手を出せといふことであり、これまで金融機関や証券会社、それに投資家と呼ばれる博打打ちが行つてきた賭博経済を富裕層だけでなく貧困層にも直接的に賭博経済に参入させて賭博経済をさらに活性化させやうといふことなのです。


つまり、岸田首相の言ふ「新しい資本主義」といふのは、賭博経済の再興主義だつたのです。「インベスト イン キシダ」と述べて胴元になる意気込みです。そして、自民党は、これに連動して「一億総株主」とまで言ひ出しました。それも言ふなら、「一億総博打打ち」と言ひ換へたらよいのです。


国民には、貯蓄をせずに投資に回せと言ひながら、国の政策では、食料の備蓄やエネルギー(石油)備蓄することの論理性の欠如に気づいてはゐないのです。


食料自給率はカロリーベースで37%、エネルギー自給率は11.7%といふ我が国は、国家として自立、独立したと言へる状況ではありません。アメリカのブッシュ元大統領(パパ・ブッシュ)は、「食料自給は国家安全保障の問題であり、それが常に保証されてゐるアメリカは有り難い」、「食料自給できない国を想像できるか、それは国際的圧力と危険にさらされてゐる国だ」と繰り返し発言し、食料を自給してゐない国は独立国とは言へないといふ趣旨のことを言ひ続けてゐました。


ですから、我が国は独立国とは認められてゐないのです。そんな国が、欧米に脅され、煽てられて、戦争ごつこの火遊びをすることが如何に危険かといふこと、そして、食料自給路線の放棄、国際分業の徹底といふリカードの比較優位説を高らかに歌ひ上げさせ、この誤つた理論によつて自由貿易が世界を良くすると騙されて信じ込んでこれを推進し、賭博経済を活性化させることによつて、我が国は益々自給率を下げ、国家存亡の危険水域に至ります。しかし、自由貿易主義は、いまや他国の関税問題を揺さぶるための口実として用ゐてゐるだけで、リカードの理論を本気で信じてゐるのは我が国だけです。


そもそも、世界における法制度と経済制度は、賭博経済を促進させる構造になつてゐます。そのことに根本的なメスを入れて、国際金融資本による支配から解放されなければ、世界も日本も社会と国家が衰退してしまふことに早く気付くべきです。


賭博経済を推進させれはさせるほど社会が崩壊して行きます。そして、その賭博経済を国内的に支へて容認してゐるのが個人主義で彩られた占領憲法です。

ですから、祭祀の復活のためには、賭博経済の根絶と占領憲法の否定といふ2つの梱包政策がなければなりません。それ以外の政策は政策の名に値しないのです。


祭祀の復活は、生活の再生であり、教育の復活であり、そして、実体経済の復活です。真の平和な秩序が形成されて人々は、助け合ひ中で幸福になれるのです。


祭祀の復活とは、社会にどのやうな変化をもたらすのか、また、祭祀の社会といふのは、どのやうなものかを理解してもらふために、いくつか例を示します。


まづは、平成27年元旦の「第十八回 籾米備蓄」で述べた福島県郡山市の飯森山にある飯豊和気神社(いひとよわけじんじゃ)の話です。


これは、神社を起点とする五穀の「奉納下賜」の運動の原型で、米の生産と消費の分配、食料の自給と貧困の解消の知恵による祭祀社会の仕組みなのです。この仕組みを取り入れて、現代における食料の生産と分配、自給自足、貧困の解消による祭祀の姿を再生することができます。


次は、イギリスの話です。イギリスでは、穀物の輸入に高い関税を課す穀物条例が一部の者だけを利するだけで国家全体の利益にならないとのリカードの意見に支配されて、穀物条例を廃止して穀物の輸入自由化に踏み切りました(1846+660)。その結果、それまで100%近い小麦の自給率が10%程度に落ち込み、二度の大戦中に食料難となり食料調達に苦しんだのです。そこで、昭和22年(1947+660)に『農地法』を成立させて食料自給率の向上を推し進めました。このやうに、国家の本能的直観によつて大きく政策転換をした結果、イギリスだけでなく、西ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、カナダは、昭和57年(1982+660)ころまでに食料自給率を100%を超えるまでに回復し、完全にリカードの論理から脱却しました。新自由主義の出発点であるリカードの論理は、帰納的に否定されたのです。


次回は、民主主義と専制主義といふ単純な対立図式で語られる世界の政治構造と、祭祀との関係について述べます。

南出喜久治(令和4年6月15日記す)


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