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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第五十二回 選挙無効訴訟

しらすにて ふだのねうちを とふべきは えらばれざりし ひとのふだかず
(白洲(司法)にて札の値打ち(投票価値)を問ふべきは選ばれざりし人の得票数)


私は、平成28年5月20日に、國體護持塾代表の吉岡由郁理さんらの依頼を受けて、その原告訴訟代理人として、大阪高等裁判所に4月24日施行の京都第3区衆議院議員補欠選挙を無効とすることを請求する訴訟を提起しました。


この訴訟は、京都府第3区衆議院議員補欠選挙に至る経緯といふ特殊性に関するものではありません。この訴訟によつて世に問ふことは、国政選挙に限らず、およそ公職選挙法の全ての選挙に関する根本的な問題であり、現行の衆議院小選挙区制度を維持したまま、一票の格差の是正といふ小手先の改革をしたところで、参政権自体が形骸化して閉塞的情況に陥つてゐることを解決することにはならず、むしろ、その状況が一層加速して、ますます本質的な問題が隠蔽されることになるといふことにあります。


それゆゑ、単に訴訟といふ司法の場だけの課題ではなく、立法、行政など国政全体の課題として捉へなければならないとの判断から、ひろく関係者に周知していただきたいと考へて、問題提起の第一歩として訴訟を提起したといふことです。


この訴訟で主張する内容は、既に訴状(頒布用)を公開してゐますので、それをご覧になつてください。この訴状で展開した論理は、吉岡さんらの抱く素朴な疑問と主要な主張の骨子を私なりに法的に構成したものです。これらの争点は多岐に亘る上に、それぞれが相互に関連したものですが、これだけではまだまだ言ひ尽くせないものが多くあります。


まづ、占領憲法第43条前段には、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」とあり、間接民主制における「選挙」によつて「全国民の代表」を選ぶといふことであり、その選挙は、代表を選出する民主主義のルールに基づかなければならないといふことを意味します。そのルールとは、「多数決原理」です。


では、その多数決原理がどのやうにして認められたのかについての背景事情について説明します。


人は社会の一員として存在しますので、一人だけでは生きられず他人との共同によつて生活をしますので、他人との関係を持つことになります。その関係には、強いものもあれば弱いものもあります。強いものの中には、夫婦や親子、家族のやうに、法律ができる以前から自律的に決められてゐるものもありますが、法律に基づいてなされるものとしては、「契約」があります。


契約といふのは、その当事者の意思の合致(合意)がなければ成立しません。一方的には決められないのです。そのことは、当事者が3人以上の多数の場合であつても同様で、一人でも同意しない人があれば、全員での契約はできず、契約者集団(団体)が成立しないのです。ですから、団体を形成する契約は、民法でも「組合」といふ契約として定められてゐるとほり、契約といふのは、「全会一致原理」によるものなのです。


当事者全員が全会一致で団体を成立させた後において、団体として活動して行く場合の様々な意思決定についても本来、全会一致が求められるのですが、それでは、纏まらないことが増えてきます。一人の反対があれば、その他の全員が賛成してゐても団体としての意思形成と業務の遂行ができないとなると、一人が多数に勝るといふ不合理な結果になります。反対する者は、団体から脱退する自由(契約を解約する自由)があつても、脱退する義務(解約する義務)はありません。個々の意見が相違したことは除名(契約不履行による解除)の理由にもなりません。

さうすると、団体運営が停滞するために、全会一致に代はりうる原理によつて団体としての意思決定をすることになります。それが多数決原理なのです。


特に、団体(組合)の代表(業務執行組合員)を誰にするかといふことについては、団体を成立させた当初の契約(組合契約)で定める必要がある事項であり、当然に全会一致原理によるのですが、団体が長期に存続して活動することからすると、代表が後に交替したり、解任したりすることも起こつてきます。そして、代表の決定こそが、団体の最も重要な決定事項なのですから、絶対に多数決原理による選出は守られなければなりません。


組合員数が多くなり、組合員全員の会議(総会)で代表を決めるといふ直接民主制の場合であつても、代表(業務執行組合員)一人ではなく複数の代表による合議制で決めるといふ間接民主制の場合であつても、いづれの場合でも多数決原理によることになります。


また、国家も団体ですから、当然にこれと同じことが言へます。

ただ、組合員以外の者が事後に団体(組合)に加入する場合は、組合加入契約によることになりますが、国民となることについては原則として契約関係はありませんので、帰化以外は、いはば「非契約」による国籍取得となります。


ですから、国籍の取得とは、国家といふ団体の構成員になることであり、それが出生によつて当然に取得する制度(国籍法第2条)であれば、強制加入に等しいことになりますので、せめて、国家(団体)における意思決定については、多数決原理がどんな場合にも適用されなければなりません。


つまり、間接民主制における議会の決議のルールにおいても、直接民主制と同様に多数決原理が適用されます。それゆゑに、代議制における選挙制度による代表の選出は、直接民主制での投票と同価値でなければなりませんから、当然に多数決原理が他の議決の場合以上に厳格に適用されなければなりません。

選挙だけは他の議決とは別だとして、比較多数原理(相対多数原理)を採用し、得票数が過半数を割つても、最も多く得票した者を当選者とする選挙制度は、民主主義のルールを否定するものなのです。少なくとも、過半数の得票数を得られない場合は、得票数の多い上位者2名の決選投票によつて過半数を獲得した者を当選者としなければ、多数決原理を適用したことになりません。


団体法理では、契約法理の全会一致原理が採用できない事情があることから、便宜的に多数決原理によるのです。あくまでも多数決原理は次善の策にすぎないのです。


つまり、契約法理における全会一致原理と同価値なものとして団体法理における多数決原理が認められたもので、団体法理においても、より契約法理に近づける必要がある重要な案件については、過半数ではなく3分の2以上などといふ「特別多数」といふ加重された要件を設けるなどの工夫がなされてゐるのです。


ところで、訴状にも触れましたが、公職選挙法上の選挙において、選挙が有効であるための投票率の下限を定めてゐないのは、そもそも間接民主制による代表選出の根幹を否定することです。有権者総数の過半数に届かない選挙は、そもそも民意が反映したものではありません。既存政党の既得権益を守るために、新規参入を実質的に阻止し、自分たちの都合のよいやうに「お手盛り」で選挙制度を決めてゐます。

既存政党への支持率が低下して、選挙の投票を棄権する人、投票しても抗議の意味で余事記載をしたり白紙などを投じて無効投票となるのは、選ぶべき人や政党が存在しないといふ黙示の意志表明なのです。少なくとも当選者を支持しない意志表明であることは明らかです。


こんな制度を放置するために、ますます投票率が低下し、小選挙区制のために必然的に死票が多くでます。これでは全く民意の反映がなされてゐない選挙制度であり、民主主義の根幹が否定されてゐます。


そんな選挙制度を守るために、「一票の格差」の問題で大騒ぎして、ますます小選挙区制を徹底しようとしてゐるのです。もし、投票率を問題とせず、棄権票や無効票を問題としないのであれば、投票所に行かない人の「投票価値の平等」をどうして問題にするのですか。投票所に足を運んで、既成政党や候補者に対して有効投票した人の「投票結果の平等」だけを問題にして、一票の格差を議論すべきなのです。


しかしまあ、所詮、訴訟といふのは、訴訟特有のルールによるゲームですから、その競技のフィールド(リング)に立たなければ試合はできないのです。真の実力(論理の正当性)があつても、訴訟特有のテクニックとパフォーマンスとして発揮できる方法がなければ敗訴してしまふのです。


特に、裁判所は、これまでの判例や学者が主張してゐない論理を採用することが殆どありません。「先例主義」の奴隷となつてゐますので、当事者が新しい論理主張を展開すると、それを「独自の見解」だと決めつけて、その内容を検討したり評価することを完全に拒否して、思考停止状態に陥ります。


主張に独自性があるといふのは、「事実」の問題であつて、「価値」の問題ではありません。これまで、科学の発展は、その時代にはない独自性のある仮説が証明されてきたことによるものであつて、法律の世界においても、新たな判例が生まれる契機は、その当時では一般的ではなかつた独自の見解が認められることによるものです。従つて、「独自の見解」といふものが、それ自体論理破綻してゐない限り、裁判所も相手方も法曹の責務として真摯に向き合つて判断する必要があるのですが、現実は、全くさうではないのです。


政治や裁判、そして、憲法論を語るのは、専門家が行ふものであつて、政治家、裁判官、学者などではない素人の議論や質問を完全に無視するといふ知性主義的傾向は、これら専門家がお題目のやうに唱へる、あの「国民主権」に反するといふ致命的な矛盾があります。


訴状(頒布用)を読んでいただければ判ると思ひますが、ここで展開してゐる論理が「独自の見解」だといふ意味不明の理由で排斥できるものなのか、皆さんで判断してみてください。

南出喜久治(平成28年6月1日記す)


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